子供を「頭が良い子」に教育したいくせにこの人のことを知らない親が多すぎる
教育について昨年来考えているのだがなかなか答えがまとまらない。そこで今回は、まとまらないことをまとまらないなりに書いてみようと思う。
まず、教育の最も大きな目的の1つに「子供の頭を良くする」ということがある。今、多くの親が、子供の頭を良くしたいと願っている。なぜかというと、頭が良くなるとさまざまな問題を解決しやすくなり、それは社会貢献につながるからだ。そして社会貢献ができると、ぐっと生きやすくなる。親は、子供が生きやすいことを願う。だから、頭が良くなってほしいと願いながら教育するのだ。
この傾向は、産業革命以来拡大化してきた。そうして現在に至るまで、頭が良い人のプレゼンスは上がり続けている。
ところが、それにもかかわらず「頭が良い」ということの定義は、今ひとつはっきりされていない。なぜはっきりされていないかははっきりしていて、それは「絶望する人」が増えるからだ。頭が良い人の定義をはっきりさせてしまうと、それに合致していない多くの人の精神的なバランスが崩れる。それは、社会にとっても不利益が大きい。
それほど、「頭が良い」ということは、現代を生きる上では強力な武器になる。むしろ、武器として「強力すぎる」といえるだろう。だから、暗黙の了解でオブラートに包み、明確化しないようにしているのだ。
ただ、その一方で「頭が良い」ということの定義は、実は一種の暗黙知として共有されてもいる。知る人ぞ知る「頭が良い」ということの定義が、抽象的かつ婉曲的ではあるものの、すでにしっかりと定まっているのだ。
その定義を、抽象的、暗喩的に定めているのは、「歴史的に大多数の人が頭が良いとする人」である。「歴史的に大多数の人が頭が良いとする人」は、かなり数が限られている。しかも、その人たちの性質も似ている。だから、その人たちの頭の良さを概念化することで、「頭が良い人」というのが定義できる。
では、「歴史的に大多数の人が頭が良いとする人」とは誰か? 前述のように、これはかなり数が限られている。しかも、その中でランキング1位という人さえ、ほぼ定まっている。これには異論のある人もいるだろうが、その異論を唱える人はたいてい頭がそれほど良くないので、耳を傾ける必要はないだろう。
では、「歴史的に大多数の人が頭が良いとする人」のランキング1位とは誰か?
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