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子供が交通事故で死んだらどうするか?
ぼくにも子供がいるので、交通事故で死ぬかも知れない。そういう可能性はいつだってある。それで、そういう事態に遭遇したらどうなるか、考えてみた。
まず、子供を失った悲しみについては、いつかは解消できる。そもそも仏教は、こういう悲しみを解消するために生まれた。そういう悲しみを解消する方法を示した人こそ釈迦だ。だから、そういう悲しみは解消できる——ということを、まず知っておいた方がいい。
では、釈迦の示した悲しみの解消法とはどのようなものか? それは、「悲しみというのはそもそも本質的ではない」というのを知ることである。それは一種のまやかしのようなものだ。幻のようなものである。では何が本質かというと、むしろ死ぬことの方なのだ。
死ぬということは、人間の本質である。なぜなら、死なない人間はいないからだ。たとえ子供であっても、あるいはたとえ交通事故が原因であっても、その死はいつかは来ることで、その意味ではいいも悪いもない。自然のことだ。
それに、これから100年も経過すれば、その親は死んでいるだろうから、この悲しみは必ず風化する。そういうふうに風化するというのが、悲しみの本質でもある。だから、そういう風化するものにとらわれるのは、本質的ではない。そのことに気づけば、悲しみは捨てられる。
さて、これが悲しみの解消方法なのだが、しかしこう書いてみても、実行はなかなか難しい。なぜかといえば、悲しみというのは、実際は「とらわれる」というよりも、むしろそれに「進んで身を投じる」というケースが多いからだ。
そもそも、「悲しむ」というのは悲しみを解消する方法の一つでもある。子供が交通事故で死んだときも、悲しめば悲しむほど、心は癒やされていく。泣けば泣くほど、心はすっきりしてくる。だから、大いに悲しんだ方がいいし、大いに泣いた方がいい。その方が、どんどん悲しみは薄まっていくのだ。
そう考えると、最も良くないのは「悲しみを覆い隠すこと」である。悲しみに対して距離を取り、見て見ぬ振りをすることだ。そうしてしまうと、悲しみがいつまでも心の奥底でくすぶり、やがて心身の不調をきたしてしまう。悲しみが居座って、いつまでも悲しみ続けるということになる。だから、悲しみを覆い隠すということは絶対にしない方がいい。
では、人はどういうときに悲しみを覆い隠すのか? それは、周囲を気遣うときである。周囲を気遣っていると、自分の悲しみを覆い隠しがちだ。よくあるのが、子供が死んだとき、その兄弟が悲しめないというケースである。死んだ子供の兄弟というのは、悲しんでいる親を見て「自分が悲しんではいけない」と思ってしまう。親を気遣って、悲しみを覆い隠してしまう。
そうすると、心の病気にかかってしまう。だから、もし子供が交通事故で死んだなら、親はその兄弟に気を遣わせないようにする必要がある。そうして、彼らを心から悲しませてやる必要がある。
では、どうすれば交通事故で死んだ子供の遺族を心から悲しませることができるのか? それは、周囲の人があまり気を遣わないことだ。それよりも、もっと無神経に振る舞うことである。感情むき出しにして、傍若無人に振る舞うことだ。
人間というのは、他者が感情をむき出しにしていると、それに気遣わずに済む。周囲が感情をむき出しにしていると、遺族も自分の感情をむき出しにできる。逆に、周囲の人が冷静に振る舞っていると、気を遣ってちゃんと悲しめない。
だから、周囲の人がお葬式に行ったときの正しい対処法としては、号泣することだ。遺族にもはばからず、声に出して泣くことである。そこで「自分よりも遺族の方が悲しい」などと遠慮するのが、実は遺族を気遣わせてしまうので一番いけない。
本人はそのつもりがなくとも、例えば遺族にやさしい言葉をかけたりすると、相手を気遣わせて、その結果病ませてしまう。だから、やさしい言葉は絶対にかけてはいけない。やさしい言葉をかけるのは、本人にとっては気持ちいい。しかしそれは文字通りのオナニーで、実質的には甚だ迷惑な行為なのだ。
ただ、日本の社会はそういうはた迷惑なやさしい言葉をかける人で溢れている。だから、交通事故で子供が死んだりしたときには、その遺族はなかなか癒やされない。そしてそれは、無神経なマスコミのせいではない。むしろ、優しい言葉をかける周囲の人たちのせいなのだ。
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