「人跡未踏」への挑戦《前編》天岩戸神話の再現に挑んだ登山家たち プロ登山家 竹内洋岳(たけうちひろたか)さん (「日本の息吹」令和5年2月号より)
天岩戸神社の御神体に注連縄を張る「現代のフトダマミコト」の役を担ったのは、危険な絶壁に挑む技術を持った登山家たちだった。そのリーダーを務めた14座サミッターの称号を持つプロ登山家に聞く。
神田
― 今回のインタビューは前編と後編に分けまして、前編では、日本人でただ一人、14座サミッター(*1)の称号を持つプロ登山家の竹内さんが、天岩戸(あまのいわと)神社の神事に関わられたご体験をお伺いしたいと思います。
竹内 私たち神田あたりで育った者は皇居のお膝元という自負がありまして、軽い言い方で恐縮ですが、皆、皇室ファンなんですよ。
― 神田といえば江戸三大祭りですね。
竹内 神田明神のイメージが強いと思いますが、うちは西神田で三崎稲荷神社(みさきいなりじんじゃ)の氏子でした。神保町交差点での神輿渡御はにぎやかですよ。
― 靖國神社も近くですね。
竹内 子供の頃、靖國神社の境内は遊び場でした。あの辺りは私のルーツのひとつですね。
― さて、天岩戸神社の注連縄張神事が令和4年12月22日の冬至の日、行われます。《本インタビューは令和4年12月9日に行われました。》今回で3回目で、竹内さんは第1回から奉仕なさっていますが、そもそも携わられるようになったきっかけは?
竹内 登山家仲間の広田勇介さん(*2)のお誘いがあったからです。天岩戸神社の佐藤宮司(*3)は幼い頃からの念願で、注連縄を御神体の天岩戸の御前にどうしても掛けたかった。その話を伝え聞いた広田さんが現地を見て、これは登山家にしか実現できないと思われて、ではどの登山家に頼もうかというときに私のことが浮かんだらしいんですね。
皇室とマナスル
― 天岩戸神社は皇祖神、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の天岩戸神話の舞台ですから、広田さんは天皇陛下と御親交のある竹内さんこそふさわしいと思われたそうですね。
竹内 天皇陛下は皇太子時代から山がお好きで、山に関する私の講演をお聞きいただいたり、山に関する展示のご説明役を私が務めたこともありました。広田さんの念頭にはそのことの他に、マナスル(*4)のこともあったのかもしれません。14座ある8千メートル超の高峰のうち、マナスルは日本人が世界で初めて登頂した山で、わが国の登山史において特別な意味を持っています。そこで、その60周年(平成28年、2016)のとき私が主導して記念の会を開いたことがメディアなどで話題となったんですね。
マナスル登山隊の隊長を務めた槙有恒(まきありつね)は、秩父宮殿下(*5)の庇護を受けています。槙は、秩父宮サロンといわれた文化人など
の集まりのメンバーでした。
秩父宮殿下は、日本の登山の草分けのお一人です。スポーツ文化としての登山を日本に最初に持ち込まれたのが、戦前ヨーロッパにご留学中、登山を学ばれた秩父宮殿下でいらしたのです。殿下はマナスル登頂を見届けられることなく、薨去(こうきょ)されます。そのあとは秩父宮妃殿下がサポートなさっています。これがマナスル登山隊の成り立ちなのです。マナスル初登頂の祝賀会に、秩父宮妃殿下は、マナスルの絵を描いたお着物を召されて御参列されたそうです。
マナスル初登頂は一登山史に留まらず日本の歴史でした。それは日本復興のシンボルだったのです。その年に政府は「もはや戦後ではない」(*6)と宣言しましたが、のちに戦後の三大復興シンボルとして新幹線、東京五輪、そしてマナスル初登頂とされたほど、当時の日本国民に勇気を与えた出来事でした(*7)。
ですから、その60周年はぜひ盛大にお祝いしなければと私は思い、数年前、祝賀行事を行いました。当初は誰も乗り気でなかったのですが、その3年前に、イギリスではイギリス隊のエベレスト世界初登頂(*8)の祝賀会が盛大に開催されていましたので、日本の威信にかけてマナスル60周年祝賀行事はやらねばと私は奔走しました。
紆余曲折がありましたが、畏れながら皇太子殿下(今の天皇陛下)に御臨席を賜り、無事、祝賀式典と記念展示を行うことができました。
殿下には記念式典に御臨席賜わり、記録映画『マナスルに立つ』を御鑑賞いただき、日本隊ゆかりの品々など展示物を御覧いただきました。
私はそのときのご説明役を務めさせていただきましたが、殿下が時間に正確な方であることは知られていましたので、前日にリハーサルをして警備当局とも綿密な打ち合わせをしていました。ところが、殿下から次から次へとご質問が出されて、遠くの方で警備責任者が時計を指さして慌てていたというようなこともございました。殿下は本当に山がお好きなのだなと拝した次第です。
そのようなことも知っていた広田さんが、私に白羽の矢を立ててきたのです。広田さんとは長い付き合いです。
人跡未踏への挑戦
― 依頼があったときの最初の印象は?
竹内 正直私は注連縄(しめなわ)とか神話とかあまり興味はなかったんですね。もともと皇室ファンではありますが、歴史の彼方のことにまでは関心はなかった。
それでも二つ返事で引き受けました。その理由は、神話以降、人が立ち入ったことのない、未踏の地がそこにあるというお話しだったからです。人類として初めて足を踏み入れることのできるチャンスが巡ってきた―登山家は探検家の末裔ですから、その血が騒いだのです。
― 探検家にとって「人跡未踏(じんせきみとう)」という魅力は強烈なのですね。引き受けられて最初に現地に入られたときの印象は?
《天岩戸神社は岩戸川を挟んで東西二つの拝殿があるが、西の拝殿の遥拝所から川を渡った対岸の崖の中腹に「天岩戸」はある》
竹内 最初考えたのは東の拝殿側の崖の上から下りようということでしたが、現地を見ると藪が深くて難しい。そこで、西の拝殿の崖を下りて、そこから岩戸川を渡って、対岸の「天岩戸」と思われるところの下まで行きました。神話の時代からどれだけ長い時間が経ったのか、岩の崩落があり深い藪で覆われていました。
― 洞窟は見えた?
竹内 洞窟と思われる場所に狙いを定めて、よじ登っていきました。そして、入口らしきところにたどり着きましたが、藪(やぶ)が深くて中を伺うことができません。参拝客の多い西の拝殿から空中の直線距離で100メートルほどのところで人の声も車の音も聞こえるのに、人が足を踏み入れていないというのは何とも不思議な感覚で、神聖な雰囲気がありました。藪をかき分けて中へ入ってみると、中から外は見えず薄暗い状態でした。
地質的にいうと、阿蘇山の噴火による火砕流が冷えて火山岩層を結成した上に火山灰が降り積もった二重構造の地層が、長い年月をかけて岩戸川に浸食されて、洞窟を形成したわけです。今では洞窟の屋根の部分が一部崩落して狭くなっていますが、かつてはかなり奥行のある洞窟だったろうと思われました。
日が射した瞬間、神事だと実感
竹内 灌木(かんぼく)や藪が深いので、まずはこれを切り払わなければならない。のこぎりで伐採していきました。すると、ある大きな木を切り倒したとき、日の光がさーっと射しこんできました。空が見えて中がふっと明るくなった。暗闇に光が射した。そのときふと、天照大御神が岩戸からお出になられたときはまさにこんなふうだったのではないかと思いました。それまでは作業効率を求めていた私でしたが、日が射した瞬間、やはりここは信仰の対象であり、神聖な場所なんだ、注連縄を張るための技術的作業ではなく、注連縄を張る神事として、引き受けなければならないと、心構えが改まった気がしました。
― 素晴らしいご体験ですね。
竹内 同じ作業でもそこから先は心境が違いました。木を伐採し終えて改めて西の拝殿側から見ますと、それまではどこが天岩戸か、判然としなかったのが、分かるようになりました。佐藤宮司もおっしゃっていましたが、「令和の天岩戸開き」が行われるのだ、だからこそ、注連縄を張らねばならない、との思いが私たちも強くなりました。
コロナの蔓延(まんえん)と空中に張るという難題
―神事の意義がより鮮明になった。
竹内 ところが、新型コロナ感染症の蔓延で、準備作業が中断してしまいました。12月の神事の日程は動かせない。まだちゃんと注連縄が張れるかどうか、わからないのでもう一度調査と準備をしてから本番を迎えるつもりが、ぶっつけ本番となってしまったのです。延期論も出ましたが、宮司の「コロナの病気が蔓延しているということは、天照大御神が天岩戸に御隠れになって、さまざまな災いが起こったことに似ているではないか。今こそやらなければならない」と強い決意を述べられて、それを聞いた私たちは、一度引き受けた以上は何としてもやり抜かねばならないと、神事の1週間前から神社に泊まり込みして作業を続けました。
余計な木や草を伐採し、枝を払って、いよいよ注連縄を掛けようという段階にきました。どのように掛けたらよいのかは、最初の調査のときから思案してきました。
通常の注連縄ならば、拝殿の軒などに掛ければいいのでしょうが、ここは上下左右絶壁で、天岩戸の左右にわずかに出たところにロープを渡して、そこに注連縄を張るしかない。すなわち、空中に注連縄を張るということです。しかし、どうやってロープを渡すか、が最初の難題でした。両側から注連縄を持ち上げることもできないし、注連縄を手に持って向こうへ渡すこともできない。
いろいろ考えを出し合った結果、私が選んだのは、弓矢でした。矢の先端に釣り糸を付けて対岸に飛ばす。林業や橋を渡すときとか、送電線を渡すときなど昔はミニロケットや弓矢を使っていたということを参考にしながら、決めました。詳細は省きますが、思考錯誤の末、矢はジュラルミン製となりました。これで失敗は絶対に許されないことになりました。失敗して神域に落ちて見失うようなことになって拾えなくなったら、腐らずに残ってしまう。
― 木製なら朽ちて自然に還る。
竹内 ええ、ジュラルミンは土に還らないわけですから。一発勝負はかなり緊張しましたが、幸い成功しました。次の問題は強度のあるアンカー(つなぎとめる物)を見つけられるかということでしたが、これも幸いにそれに適した丈夫な木を見つけることができて、そこから、釣り糸を手繰って細いロープを渡して、徐々に太いロープに変えていくという作業を何回か繰り返して、最終的に直径10ミリの丈夫なロープを張ることができました。あとは、当日、これに注連縄を通せば成功というわけです。
神話と現在を結び付けた神事に携わった誇り
― 大変な1週間でしたね。
竹内 作業中は間に合うかどうか気が気でなくて、朝暗いうちから夕方日が落ちるまでの作業が続きました。残り少ない時間に急かされるなかで、ちょっときわどい作業中に宮司から電話が入って何事かと思ったら「お弁当が届きましたよ」と。何を呑気なことを言ってんだと思って「弁当食ってる場合じゃないですよ」と返したりして。後で宮司には失礼なことを言ったと謝りましたけど、それくらい緊張した日々でした。
― 振り返られての御感慨は。
竹内 第1回目の神事で注連縄が無事張られたときは感無量でしたね。神話のフトダマノミコトの役を果せたことに安堵と喜びを感じました。これまでの登山人生の経験が活きて、こうして神話と現在とが結び付いて、新しい神事の形を残すことができたことを誇りに思います。今度で3回目となるわけですが、ロープは残っているので、やりやすいとは思います。
私が携わるのは今度が最後です。引き受けるとき、3回やって形だけは残したい、あとは次の方へバトンタッチするという約束でした。実際、次のリーダーの候補に今回参加してもらっています。ゆくゆくは地元の方に継いでいただくのが一番いい。冒頭お話ししたように私は神田のお祭で育ちましたが、お祭って地元の人々のものなんですね。地元の人たちが受け継いでいかない限り、そのお祭はいずれ無くなってしまう。
最初の形は私たち登山家が作りました。これは意味のあることで、登山家というのはいわば特殊技術集団なんですね。そんな人たちが、昔から国づくりには居て、例えば戦国時代であれば、穴を掘る特殊技術を持った人たちや金を掘り出す特殊技術を持った人たちがいたりした。忍者などもそうですね。そういった特殊技術を持った人たちが国づくりを支えてきた。神社のお祭にも昔からそういう特殊技術を持った人たちが貢献していたと思います。
これは私の想像ですが、天岩戸神話に出てくる神々たち―アメノウヅメ、タヂカラオ、オモイカネ、フトダマなどの神々たちは特殊技能を持った人たちの象徴だったのではないか。芸能に秀でた人、圧倒的な体力を持った人、底知れぬ知恵を持った人、呪術に長けた人など。注連縄を渡す「現代のフトダマミコト」の役を担ったのは、危険な絶壁に注連縄を張る技術を持った登山家の私たちでしたが、今後もこの役は登山家たちに受け継いでほしい。九州にも優秀な登山家はたくさんいますし、高千穂の地元の中からもその担い手が出てきてほしい。そうやって天岩戸神話を再現していく営みがずっと続いてほしいと願っています。
(前編終わり。後編ではプロ登山家としての竹内氏に迫ります)
(参考)天岩戸-太陽のサクレ(明成社)
宮崎県高千穂町に鎮座する天岩戸神社の御神体「天岩戸」洞窟を、史上初めて踏査し、注連縄張り神事を執り行うまでのドキュメンタリー。