さすらいもしないで。
さすらいもしないで
このまま死なねえぞ
(奥田民生『さすらい』より)
前回の「男が『男になる』とき」の最後はこの曲だったな、と思い出しながら、僕は頭を流れる「敗戦の弁」に悩まされていた。
来週 21日(木・祝)の『魂うた®︎』開催に必要な人数を集めなければならない。そのことを意識すると「ダメだったときの言い訳」が脳内で自動再生される。
「まだやるのか」とか「次はどうするのか」とか、誰も聞いてないのにインタビューがはじまる。それに対して、どういうふうに応えたらかっこ悪くないかとか、筋が通るかとか、人の目ばかり気にしている自分がいる。
「ダメだったときにどうするのか。」
そんなことばっかり考えて生きてきたのだな、と思う。
むしゃくしゃしたので、かんたんな料理をして、部屋を丁寧に掃除した。
それからネットフリックスで『Jimmy』という明石家さんまさんとジミー大西さんのドラマを観た。
何にもできないジミーちゃんが、自分のように思えた。
以前、僕は「集客に溺れた」という記事を書いた。
そこにはこう書いたけれど、
でも、以前のようにつらくはなくなった。
不安や無力感にさいなまれることもない。
ついた傷をかきむしるように苦しむこともない。
僕はどうも溺れることに慣れたらしい。
そのかわり、必死にもなれなくなった。
いま、やっぱり不安や無力感にさいなまれている。
そして、今の僕には「必死にもなれなくなった」という一文が気になる。
なぜなら『魂うた®︎』で共に過ごしたい人は「全力で歌ってくれる人」だからだ。
その全力に呼応して、歌に魂が宿る。
「必死にもなれなくなった」人が「全力で歌ってくれる人」を呼べるものだろうか。
まわりはさすらわぬ人ばっか
すこし気になった
バンジージャンプの国、オーストラリアでは、物心ともに豊かであるにも関わらず、人が「どうやって全力になったらいいか」を見失っているため、セラピーが必要なのだと聞いた。
全力の出し方がわからない。僕もそうだなと思う。
それは僕にとって「生き方がわからない」という苦しみだった。
だからこそ『魂うた』なのだ。
歌なら、声を出すことなら、全力の感覚がとてもつかみやすい。
そして、僕自身も歌う人に全力で関われて、心の底から「面白い」と思える。そのとき現れる人の本質を、その美しさを分かち合える。
全力が出せる。
きっと手応えのある思い出になる。
その予感がするから、こうしてまた呼び掛けたくなる。
来週、3月21日(木・祝)名古屋で開催します、
『魂と繋がる歌の唄い方®︎』〜男が「男になる」とき
頭の中を流れる「ダメだったときの言い訳」に負けて、さすらえなくなっている僕とあなたのために。
「このまま死なねえぞ」という一日にしたいと思っています。
ぜひ来てください。