いまこそわかれめ_

いまこそわかれめ。

今日は、児童館の今年度の運営最終日。
そしてそれは、ある高校三年生にとって、児童館に来られる最後の日でもあった。

彼は、毎日児童館に来ていた。
毎日「のように」ではなく、本当に毎日。

病気をしたり、特別な用事があったりしなければ必ずいたから、僕たちにとっては、職員同士よりも顔を合わせる存在だった。

彼にとって、児童館は文字通り「居場所」だった。
逆に言えば、児童館以外に居場所がなかった。
そうなるだけの心配な面が彼にはあった。

けれど、児童館に来られるのは、0才から18才まで。
だから今年一年は、彼が社会に出て困らないよう、いろんな働きかけをした。

正直言って、それらが功を奏したようには思えなかった。
けれど、きちんと就職先を決め、月曜日からは社会人になるという。

最終日の今日、彼はすこしはしゃいでいるように見えたが、基本的に普段と変わらない過ごし方をしていた。

適当なところに寝そべって、いつも遊んでいる小学生たちとからかい合って、最後に卒業式のような催しがあったけれど、それもいつものおふざけの延長みたいに見えた。

そう、それがNくんだ。
ついここを巣立つことを忘れてしまうくらい、彼は普段通りだった。

僕にとって、彼は家族でも恋人でも友達でも同僚でもない。他人だ。

でも、毎日会っていたからか、そのへんの誰かとは違った思いがいまある。別に好きでもないし、どちらかというと面倒だったけれど、それでも他人と言って切り離せないなにかが残っている。

「がんばれよ」とか「大丈夫か?」とか「お前なあ」とか「どうなるんだろう」とか「元気でな」とか。

思いは、自分の意思や好き嫌いとは別に、こんなふうに取り付くものなのかもしれない。どんなに他人だよと言ったところで、毎日、視界に、意識に、会話に現れてきた人の存在感は、消せない。

彼は「いる」ということを執拗に訴えていた人だったから、いま僕がこう感じていることは、彼にとっての成功と言っていいのだと思う。

思えばいと疾し この年月
いまこそ別れめ いざさらば

最後の最後に、思いつきで「常連カード」と呼ばれる入館カードの裏に寄せ書きをして渡した。持っていたところで捨てるだけのものだったし、ちょうどいいかとも思って。

彼は「あ、そう」みたいな顔をしてそれを受け取り、明日も来るみたいにして「じゃあ」と言って帰っていった。

僕らも別に涙をこぼすわけでもなく「らしいね」と言って見送った。

なにかはっきりと言葉になったり、「さみしい」みたいな名前がつく感情になったりするには、あまりにも微々たる感じ。それを敢えて「仰げば尊し」的にドラマチックにする気にもなれない。

でも、微熱でも、ほんの少しだけ熱を帯びていることはたしかで、こういうのってなんて言ったらいいんだろうね、と思っている。

もう二度と会わない、という別れは、こんなふうに当たり前のように日々を通り過ぎていくものなのだ。

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澤 祐典
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