訪れるものの第一発見者になる。
「第一発見者」という言葉をくれたのは、今日『作曲事始』(オンラインの作曲教室)に参加してくれた友だった。
ものをつくるとき、「あれをつくろう」と目指すよりもどこかから「来る」ものの第一発見者になる。彼女はそう言った。
僕がしている "作曲" もそんな感じだ。
お風呂に入っているときやトイレに入っているときにふっと口をついて出てくるメロディー(鼻歌)をボイスメモに録音する。聞き返してみて「こう言っていそうだな」と思う言葉をあてていく。
これを繰り返すうちに歌の「言わんとすること」が明らかになる。僕はその第一発見者になる。第一発見者として「面白い」とか「いいな」とか「すごいな」と思う。
それは「つくる」というよりも、曲が訪れるスペースをあけて待つような感じだ。それが「来た」ら、赤ちゃんの言葉を聞くみたいに、まだ言葉になっていないムニャムニャの意味を知ろうとする。
だからと言って、完全に受け身でもない。
無数の音と言葉のうち、自分が「いいな」と思う音、魅力を感じる言葉が選ばれていくからだ。自分のなかを往来する音と言葉のうち、なにも感じないものは縁のなかった人のように意識に留まらず、そのまま流されていく。
この意味で "作曲" は、どこかから「来る」ものを招き入れる行為であり、同時に心のどこかでまたたいている光のありかを明らかにする行為でもある。
ちょうどいま読んでいる若松英輔さんの『悲しみの秘儀』にこんなことが書かれていた。
祈ることと、願うことは違う。願うとは、自らが欲することを何者かに訴えることだが、祈るとは、むしろ、その何者かの声を聞くことのように思われる。(P.4)
生きるとは、人生とは何かを問うことではなく、人生からの問いに応えることだと『夜と霧』の著者ヴィクトール・フランクルは言った。
(略)
人生はしばしば、文字にできるような言葉では語らない。人生の問いと深く交わろうとするとき私たちは、文字を超えた、人生の言葉を読み解く、内なる詩人を喚び覚まさなければならない。(P.5)
僕がする "作曲" での耳のすませ方は、この「人生の声を聞く」のに似ている。
願うとき、人の中は自らの欲することでいっぱいだが、祈るときはからっぽになっている。そんなふうに曲づくりという行為を通して、人生の言葉を招き入れ、読み解く。そのためのスペースをあけておく。
そのような自覚があるからこそ『作曲事始』がただの作曲教室で済まないような面白さを感じている。それは参加してくれた人と僕との間に訪れた「人生の言葉」の第一発見者になるからなのだと思う。