あいぎこえ。
万葉集の中で、恋の歌のことを「相聞(そうもん)」というそうだ。
へぇ、と思って辞書を引くと、大辞林にこうあった。
【相聞】
① 手紙などで互いに相手の様子を尋ねあうこと。
② 万葉集の和歌の部立ての一。恋慕や親愛の情を述べた歌。あいぎこえ。
あいぎこえ。すごい言葉だ。
当時の男女は一首の中にものすごい量の思いをこめたのだろうし、それをしたためた手紙は、姿の見えない相手を「聞く」大事な大事なものだったのだと思う。
相手の様子のことを「消息」というけれど、文字通り、息が消えるところまで、必死に読み、聞こうとしたにちがいない。
その熱量。その姿勢。
下世話な話だけれど、当時は、歌の巧拙が「モテる」条件だったと聞く。
会うことがそれほどできないからこそ、歌でわが身にふれ、酔わせ、魂を高揚させてくれる人を人々は強く求めた。それほど「相聞」は、生きる喜びにかかわる切実なことだったのだ。
いまポップスターがファンにしていることも、基本的には同じことなのかもしれない。
そこまでとはいかないけれど、気持ちがわかるところもある。
その昔、ラブレターを書いたり、もらったりしていた時期があった。
手書きで書かれたその一文字一文字を、いとおしく読んだ。
文字のかたちになって何度も読み返すことができる好意は、僕の承認欲求を強く満たしてくれたし、その人ならではの表現の中に、何度でもよみがえる高揚があった。
こちらから書くときには、収まりそうにない思いをどう伝えようか、大げさじゃないだろうかと迷いながら、ずいぶん苦心して書いたものだ。(そして大抵、勢い余った大げさな手紙になった。)
あのときにも、互いに胸を躍らせながら「あいぎこえ」をしていたのだと思う。
現代の僕たちは、情報技術のおかげで、簡単に文字を打ち、読んでもらうことができるようになった。(ちょうどいまこうしているように)
けれど、息が消えるところまで、必死に「あいぎこえ」した時代の記憶はDNAの中に残っているのだと思う。
そして、いまでもそれは、何千年経っても変わらない、人の切実な欲求なのだ。