この人生を全うせよ。
この人生を全うせよ
誰のものでもないと
図に乗って しくじって
そんで今日も また神頼み
くにちゃんの話を聞きながら、ふっと頭の中でこの曲が再生された。
ミスチルの『旅人』。
「場ちがいだな」と思ったが、そうでもなかった。
昨日、奈良の石切で行われた『未二観レビューの手ほどき』というクラスに参加した。主催は、くにちゃんこと橋本久仁彦さん。
そこで語られ、考え、影舞や未二観を通じて試みたことは、
真剣に向き合うとは、どういうことか。
命がけで生きるとは、どういうことか。
この人生を全うするとは、どういうことなのか。
といったことだった。
書いたそばから空疎になっていきそうな、こうしたことを確かな実感をもって語り、聞くことができた。くにちゃんの語りに照らしながら「僕はどんなふうに生きていきたいのか」という自分の思いをたどることができた。
くにちゃんの語ることは、はじめて聞くことなのに、ずっと前からわかっていたことのように思えた。「そうだそうだ、全くそうだ」という納得感は、自分の中にそれに照合するものがなければ起きない。
どこにいっても触れることのできなかった、そうしたものに触れられるありがたさがこの場にはあった。
これは途中の一コマ。
「てるぺん」という積み木で組み上げられたこの景色は、その場にいた僕らにとっては特別な意味をもつ。
これは遺跡で、土地で、言葉で、死で、人生なのだ。
そして、ここには写っていないものさえ、見ることができる。
感化されやすい僕は、つい、くにちゃん、くにちゃんと言ってしまうけれど、あの語りは、あそこにいた人たちの真剣さが呼び覚ましたものだったと思う。
真剣なその人がいるから、こちらも真剣になれる。
命がけで来るから、こちらも命をかけられる。
「本当の自分」であるためには、対峙するものが圧倒的に本当でなければならない。
その本当のやりとりができたときに、人は「全うできた」と感じる。
命と、魂と添い遂げることができる。
「咲く」という言葉は「裂く」に由来するそうだ。
ビリビリと空気を慄わすほど対峙したものの間にできる裂け目。
それが「咲く」。
そして、僕らからこぼれる笑みは、口に咲く裂け目だ。
そのように咲いて、笑ってみたい。
どうせ駄目やら やってみよう
数えきれぬ絶望を味わった 夢を追う旅人
なんで急にポップソングなんだよと思いつつ、この歌詞をたどっているとじわっとくる。
そう、そういうことなんだよ、そういうことなんだよ。
と昨日の出来事を反芻しながら思っている。
どういうことなんだよ、なんて説明する必要はない。
そういうことは、そういうことだ。
そのように生きていきたいのだ。