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なんにもしたくない時。

梅雨時の湿度のせいか、今朝は起きた時から頭が重く、倦怠感があった。
したいと思っていた幾つかの用事を済ませると、いよいよ頭の重さは耐えられないほどになり、どさっ、とふとんに横たわる。不快な、まとまりを欠いたなにかが体内を往来するのを感じながら、じっ、としていると、だんだん心地よくなってきた。

「ああ、じっ、としていたかったんだな」と、そこで気づく。

僕らの生活は「すること」に満ちている。朝起きたら顔を洗って、髪を整えて、髭を剃って……「すること」から次の「すること」へ。パズルゲームのように次々と訪れるそれをこなすうちに日が傾いて夜になる。眠る段になって「ああ、もうなにもしなくてもいい」と安堵する。

「なんにもしない」は、そういう時、用事の選択肢に入りにくい。それはいつもそこにあるのに、ないものと見なされている。たとえば、いま書いている note の背景の白い余白のように。

あまりに頭が重くなって、ふとんに横たわったとき、体内にある「なんにもしたくない」に気づく。都会のハイウェイのように高速で往来していたなにかの動きがだんだん穏やかになって、やがて落ち着く。

そのままにしておいたらいいのに、と思いつつ、体の調子が戻ると、また用事をはじめる。この記事だってその一つだ。別に誰から強制されているわけでもない、したくてやっていることではあるのだけれど、でも、「なんにもしたくない」からみたら、こうして活動している自分は悩ましい存在なのかもしれない。

静かに、ただ静かにじっとしている。
そんな時間を暮らしのなかに持っている人はゆたかなのだと思う。

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澤 祐典
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