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干し柿と煎茶。

今日は妻の誕生日の後夜祭ということで、ヒルトン福岡シーホークとカフェ・ピッピに食事をしに行った。絢爛豪華なヒルトンと家庭的なピッピさん。どちらも楽しかったけれど、一番おいしかったのはピッピさんで食べた干し柿と煎茶だった。

その干し柿と煎茶は、冬休みに帰省したおばあちゃんの家でおこた(こたつ)に入って食べるような味がした。家族みんなで集まっておこたに入り「あったかいね」と言いながら、みかんを剥いたり、年の瀬のテレビ番組を観たりする。それに飽きるとゲームボーイを取り出してしばらくやって、眠くなったら、そのままおこたで寝て「風邪を引くよ」と起こされる。いつだったかのそんな場面が思い出されるような味がして「はぁ〜」っとリラックスした。

人は歳を重ねるにつれて、遠くにある星のようなきらめきよりも、かつて当たり前のようにあって、いまはなくなってしまった平凡を求めるようになるのかもしれない。手の届かないものを欲することは想像にすぎないけれど、かつてあっていまはないものは体験を伴うからだ。

もうゲームボーイは持っていないし、おこたのあった岐阜のおばあちゃんの家はないし、おじいちゃんもおばあちゃんも亡くなってしまった。なのに、いま目の前におこたがあったら、当たり前のように入って、あったまって、そうすればすぐにあの場面がよみがえるような気がしてしまう。

赤ちゃんは今日、1歳と3か月になった。まだ風邪のなごりを引きずっているけれど、風邪を引いている間じゅう、ずっと機嫌がよかった。あんなに熱を出したり咳をしたりしていたのにずっとニコニコしていられるのはすごい。それ以外のときにも彼はほんとうに生きていて楽しそうだった。生きて生きて生きまくり。風邪をひこうがなにしようが、とにかく遊びたいだけ遊ぶ。そんな赤ちゃんの生きる姿勢には見習うべきところが多い。

僕たち夫婦も親として1歳3か月になった。今日もヒルトンでやれ卵を食べさせ過ぎたとか、やれおむつからおしっこが漏れちゃったとかドタバタで、子育てはぜんぜん洗練されていかない。でも、赤ちゃんがずっとニコニコしていられる程度にはお世話ができたのだと思う。よくやってるよな、と自分ごとながら思う。

そうして僕たち三人家族も、いまはあって、やがてはなくなってしまう平凡を積み重ねている。遠くにあるように思えた星は、もしかしたらいま妻の腕の中にあって、すうすうと寝息を立てているのかもしれない。

とはいえ、星が目をさましたら、夕飯の支度、入浴、就寝が待っている。明日からは保育園も再開だ。連絡帳も書かなければ。

そうして流星のような速度で大事なものは過ぎ去っていく。後には「ああ、よかったな」という思い出だけが残る。干し柿と煎茶のようななにかに刺激されるまで、それは体のどこかに宿って、忘れたままになる。

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澤 祐典
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