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いることのはたらき。
先日気づいたことなんだけど、人が「いることのはたらき」は、本人には自覚されない。
なぜならそれは、その人が「いない状態」と比べなければならないから。
僕は奥さんがいるとガラリと表情が変わって、とてもリラックスする。
先日の『BAR 白と黒と極彩色』でも参加してくれた人たちが如実にその変化を感じ取っていた。
ところが、そのことが奥さんだけには通じない。いつも「そうかな?」と不思議そうな顔をしている。
こんなにわかりやすい変化がどうして伝わらないのだろうとつねづね思っていたのだけれど、考えてみれば当たり前で、奥さんは「奥さんがいない世界」を体験することがないのだ。
人は自分がいない世界を決して体験することがない。
でも、自分がいないところにも世界はあって、その人が現れるとその世界に影響が及ぶ。
こうしたその人の「はたらき」は、他者にははっきり分かるけれど、本人には自覚されない。だから、教えてもらわないと分からない。
このことは(最近まで気づかなかった僕のように)案外見過ごされているんじゃないかな。でも仕事やはたらきについて考えるときに避けては通れないもののように思える。
たとえば、誰かが「自分なんて大したことないですよ」と言ったとする。でもそれは自分がいることのはたらきを知らないで言っている。
別の誰かが自分の仕事を誇らしく思ったとする。
でもそこに自分のいることのはたらきがどのくらい影響したかは勘定に入っていない(そもそも勘定できない)。
人は自分の存在感についてこれほど盲目でありながら「私はこのような人格であり、こんな能力がある」と評価できるつもりでいる。でもよく考えたらそれって不思議な話ですよね。
だから、自分のことを正確に照らし返してくれる友だちって大事だ。たとえ自分にとって都合が悪くても、その返しが自らの位置を教えてくれる。「こういう人間のはずだ」という自意識が崩れても、崩れた先に嘘のない「わたし」を見出すことができる。
はたらいて、はたらき返して、照らして、照らし返して。
僕らは惑星のように、ただただ光を反射しあって、互いを確認している存在なのかもしれない。
そのぐらい僕らは自分について盲目で、他者がいないと見えないのだ。
そんなことを思っている今日、奥さんが一週間の東京滞在から帰ってくる。久しぶりに「奥さんがいない世界」を長期間体験したので、今晩は心ゆくまで「いることのはたらき」を堪能するつもりだ。
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