燃える

「俺」からの果たし状

先日、チネイザン(気内蔵)というボディワークを受けた

このときのテーマは「怒り」。
からだの部位としては、肝臓が怒りを司るという。

その日、施術師のトミトミの手によって、肝臓は大いに揉みほぐされた。
いままでそんなふうにされたことがなかったから、さぞ驚いたことだろう。

当日は目が冴えて寝付けないほど、からだが活性化していた。

そして、数日後「俺」が出てきた。

僕は話すときにも書くときにも、大抵、自分のことを「僕」とか「ぼく」と呼ぶ。だから「オレ」はともかく「俺」が出てくることはまずない。

「俺」は、怒っていた。

--ふざけんな。

そういって、僕を罵っていた。

--なにちんたらやってんだ。もっとやれや。全力出してみろや。

「俺」はなおも怒り続けている。

僕は怒られるのも、怒るのもとても苦手だ。
怒りがどれほど散々な状況にするかを、痛いくらい知っているから。

だから、いろんな場面でイラっとしても、出さずにグッと堪えてしまう。
そうして、怒っていることすら分からなくなることもある。

僕は「俺」の怒りと真っ直ぐに向き合うのが難しかった。

--うるせえ。いいから、死ぬ気でやれや。

「死ぬ気でやる」「全力を出す」「本気でやる」
そういった言葉をきくと、ぼくは腰が引けてしまう。

以前いた職場で「死ぬ気」といって体をボロボロにして働いている人がいた。その人はやりたくてやっているのだけれど、ぼくは脅威を感じていた。

--いくじなし。そのまま才能を殺してしまう気か。

がんばっていないわけじゃないと思う。
でも、余力が残っているのは知っていた。

「全力だ」と思っても、どこかで力が抜けてしまう。
自信がないのか、無意識になにかが挫いているのか。

--いい加減にしてくれ。そんなことを言ってるからダメなんだ。

「俺」の追及は続く。

どうしたらいいんだろう。

話し合いは平行線だが、僕と「俺」が一致しているところがある。

それは「このまま死にたくない」ということ。

もっと「本当」のところで生きていきたい。
もっと人生に充実感を感じたい。
もっと多彩な体験がしたい。

その意味でいうと、いま自分が煮詰まっていることは分かっていた。

俺はきっとまだマトモにやれるはずさ

いつの間にか、尾崎豊までもが登場していた。

Hey baby 俺はクールに
この街で 生きてみせる
Hey baby 俺は祈りの
言葉なんか 忘れちまった

俺はきっとまだ
マトモにやれるはずさ
街中の飢えた叫び声に
立ち向かいながら

俺は走り続ける
叫び続ける
求め続けるさ

生きる意味も
分からぬまま

『誕生』のサビだ。

尾崎豊は、強烈だった。
文字通り、死ぬ気で生きていた。

あんなふうになりたい。(こわいけど)

そんな気持ちが自分の中にあった。

--俺はまだこんなもんじゃない。

「俺はまだこんなもんじゃない。」

いま、僕は自分の生活と人生を大きく変えたいと思っている。

理由はわからない。
とにかくとても窮屈な感じがしていて。

だから、この文章も書いていて、身をよじるような感じがする。

どこにいくのか。
それは分からない。

でも、この「怒り」はなかったことにしてはいけない。

「俺」からの果たし状は、まだ届いている。

それを腹の中に感じながら、僕はパソコンに向かっている。

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