恋は遠い日の花火になってしまうのか。
昔、一度だけ婚活パーティーに出たことがある。
そこで積極的に話をしに来てくれた女性がいた。
顔も名前も覚えていないが、まだ知り合ってもいないうちから、やたらに積極的だったのは覚えている。
知っている人が誰もいなかったからありがたかったけれど、乗れなかった。話も空回りしていたと思う。
その乗れなさの正体が、今日ようやく分かった。
この動画は、だいぶ昔に流行った「サントリーオールド」というウイスキーのテレビCM。
主演は、長塚京三さんと田中裕子さん。まだ付き合っていない男女の間に起こる「恋は遠い日の花火ではない」という瞬間を、見事に描いている。
長塚さんと田中さんが変わることによって、男と女の攻守が交代する。
突然の好意に攻めこまれたとき、男はいつも目を伏せている。女は揺らめきながらそれを受け止める。男の目は泳ぎ、女の目はつかまえる。それが男だと思う。それが女というものなのか。
こうした表情は、本来、たった一人の前でしか見せないものだ。
CMではカメラが神の視点として入っているけれど、実際には、当人以外にこの顔を見る人はいない。
でも、世界中で誰もが、大事な人の前ではこの顔をしている。
ためらい、目が泳ぎ、あるいはそっと受け止めている。
そこにこそ、ものすごく大事なものがあると僕は思う。
そして、婚活パーティーの乗れなさの正体もそこにあったと思う。
僕はいままで何人かの女性を好きになった。
向こうから言われるように仕向ける、みたいな器用なことはできなかったから、いつも告白しては、受け入れられたり振られたりした。
その時々に、一生懸命考えた。
どんなふうに伝えようか。どうしたらうまくいくか。
シミュレーションが激しすぎて、眠れなくなった夜も何晩もある。
でも眠れないほど考えても結局答えなんか出なくて、最後はあてもないまま、勇気を振り絞って飛んだ。それしかなかった。
飛ぶ前の時期もよかった。
その人がいるだけで世界がぱあっと明るく見えたり、目を合わせたいのに、合うとCMの長塚京三みたいにすっと逸らしてしまったり。よからぬ妄想にふけったり。
声をかけられるだけで飛び上がりそうにうれしいのに「いや、なんでもないっす」みたいな態度をとってみたり。いいところを見せようとして、うまくいかなくて恥ずかしい思いをしたり。
僕にとってそういうのが、恋だ。
婚活パーティーで話しかけてくれた女性には、その部分が省略されたような欠落を感じた。この人の前ではたじたじしないな、と思ったし、勇気もいらない。そのことが圧倒的に欠けとして感じられた。
婚活をしている人を批判したいわけではない。彼女だってきっと必死だったのだと思う。
でも「結婚」を目的にして人間関係をつくろうとするとき、そこに相手は映っているのだろうか。長塚京三や田中裕子のような目の泳ぎは、視界に入ってくるのだろうか。
僕は、結婚よりも前の段階で、好きな人を前に死ぬほど悩んで告白した経験を大事に思っている。
どうしょうもない、好かれそうなところなど一つも見当たらない、そんな自分。その自分のまま、誰よりも大事な人の前で、誰にも見せたことのない真剣さでいること。
恋は、その経験をさせてくれる。
たとえ真剣でも、うまくいくこともあれば、壮絶に振られることもある。
けれど、そうした経験の中にこそ、たった一人、その相手との間でしか起きない、花火のような瞬間が、ある。
それは勇気に報いるようにして起きる奇跡なので、システムでお膳立てされたところにはたぶん存在できないと思う。なにより凝視しなければならないのは「結婚」ではなく「相手」だからだ。
恋の花火が上がるとき、男と女は舞台に上がる。
それは一世一代の、その瞬間にしか起こらない、そして二人しか知らない舞台だ。
そのときの言葉、せりふ、表情、温度、天気。
やがて全部忘れてしまっても、それは互いの胸に刻み込まれる。
「ありがとう」の時も「ごめんなさい」の時も同じように、そのときの邂逅が思い出として深く刻まれる。
余計なお世話だと思うが、僕はそういう恋をしてほしいと思う。
そして、そういう恋をしている人を心から応援したい。
「告白ターーイム!!」
と「ねるとん紅鯨団」で叫ぶタカさんのように。
ややこしいことを取り除いたら、何でもサービスになる。
効率的にゴールにたどり着けたら、それは商売になる。
でも、恋はそういうものではない。
そんなことをしたら、本当に恋は遠い日の花火になってしまう。
人間関係はややこしくて、答えがない方がいい。
「野暮なことをするな」
ふと気づくと、地下鉄に貼られた婚活サービスの広告を、時々すごい目で睨みつけていることがある。