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そそうを許す寛容さ。

たとえば、ファミレスで隣の席の赤ちゃんが水をこぼす。
その時、あなたはどんな反応をしますか。

びっくりする? あらあらと思う?
それとも微笑む? 怒り出す?

あるいは、赤ちゃんのどんなそそうまでは、許容できるだろうか。
大きな声を出すこと、うんちをトイレでできないこと、夜泣きをすること...etc.

昨日、躾(しつけ)のことを考えていて、

どのようなしつけ方になるかは、親や周りの大人の寛容さによるのではないかと思った。そして、その寛容さが子どもの生きるスペースになる。

もっとも、それは子どもだけに限らない。
昨日会った「うるさい!」「いい加減にして!」と繰り返す障がい者の彼は、そのスペースがとても狭いのだろう。かつて障がい者は座敷牢に入れられていたというが、物理的にはそうは見えなくても、心はそのぐらいの所に追い詰められているのかもしれない。

僕たち大人だって一挙手一投足怒りをぶつけられたら、生きた心地はしない。いまでも一部の会社にはそんな上司もいるだろう。そして、そんなふうに生きられるスペースがなくなっているのに「お金がないと生きていけない」という理由から、そこから逃げられない人もいる。

保育園を建てるときに「声がうるさいからつくるな」と苦情がくるというニュースを聞いたことがある。障がい者施設の場合は、その中身が「なにがあるかわからない。こわい」に変わるらしい。

そんなふうにして何かを排除しようとする人は、きっとなんらかの理由で自分が追い詰められて、スペースが狭くなっているのだろう。日本はこんなに清潔で快適な社会になったのに、そのスペースはだんだんと狭くなっているような気がするから、排除しようとする人が特別な人ではないのだと思う。

物理的な居場所だけでなく、心の居場所も、いま、人は求めているのかもしれない。そのときに欲しているのは、そそうを許す人の寛容さだ。

寛容ってどんなふうに育まれるのだろう。
それは、それなりに自分のそそうを許されてくることによってではないだろうか。

人に生まれつきのいい人も悪い人もいない。
非寛容が連鎖するのであれば、寛容もまた連鎖するような気がする。

でもやっぱり許せないっていうラインは人それぞれにあって、それはそれでしょうがないんだと思う。そういう自分を許すことも一つの寛容だものね。

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澤 祐典
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