夢で逢えたら2

スピリチュアルって、なによ。

友人があるイベントへの出店を請われ、自分の活動について熱心に伝えたところ、

「スピリチュアルな内容がイベント趣旨に合わない」

という理由で断られたという。

なるほど、彼女の手がけていることは確かに「スピリット」に関わるけれど、主催者が言うような「スピリチュアル」の一言で片づけられるものではない。

僕は彼女がその活動に込めた本気を知っていたから、手のひらを返すように断られた心痛、いかばかりかと思った。

そうでなくても「スピリチュアル」は評判がよくない。
怪しいとか、うさんくさいとか、人から敬遠されやすい。

「魂」にかかわる仕事をしている僕自身、「スピリチュアル」に対しては、いいイメージを持っていない。

本屋でいえば「精神世界」の棚にあって、やたら鮮やかな赤や黄色の装丁が施されていて、表紙には光がバンバン飛び交って、なんなら天使も飛んでいる。

本を開くとふわふわと心地よい言葉が並んでいて、僕たちをなぐさめてくれる。読んでいるうちに「この人だけが自分の味方だ」と思わせてくれる。

でも、特殊な用語の並んだ文章を読み進めるうちに、現実とかい離した、自分勝手な物語に巻き込まれている気がしてくる。本当に救われているのは権威者だけで、他の人は気持ちがいいところに留めさせられ、命が使えなくなってしまうのではないかという疑念が湧く。

別の友人がシェアしていた投稿で、ある人が「シュガーコーティング」という言葉を使っていた。

一見やさしそうに見える甘い言葉やかかわりが、命の動きを留めてしまうという意味で。

そうした砂糖がまぶされた「いんちき天国」みたいなところに留められて、気持ちいいふりをしているうちに一生が終わってしまうのではないか。

「スピリチュアル」に関わる活動をみていると、そんな危惧をおぼえることがある。

僕が出会った「魂」や「スピリット」にかかわる人たちは、そうではなかった。

そこには「生き死に」に関わる問題が横たわっていた。
無数の傷と猛烈な怒りがあった。
「命をかけて」と形容しても歯が浮かない強度での関わりがあった。

人生がうまくいっている人もそうでない人もいた(そうでない人の方が多かった)が、

「この人たちは人間をなめていない」

と、僕に思わせてくれた。
彼らといるとき、僕は大事なことを思い出すことができた。

昨日、児童館の学習会で大学生サポーターが「言霊」にかかわる話をした。自信なさげに語られたそれに「言霊」が乗っているようには思えなかった。

それで分かった。
「スピリチュアル」は圧倒的にやっている人の本気に依存すると。

シュガーコーティングに使えそうだとか、ビジネスになりそうだとか、ましてや自分が傷つかないためだとか、「スピリット」はそんな理由で扱えるものではない。

自分は魂を弄んでいないだろうか。
そうした問いのないところに「スピリチュアル」はない。

そして、この意味での「スピリチュアル」は「イベントの趣旨に合わない」という理由で否定できるものではないのだと思う。

僕たちはいかに生きていくか。
どのように命を使ったらいいのか。
どうしたら魂を全うさせることができるのか。

その問いにつながっていない趣旨になど、何の意味もないからだ。

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