やさしい地獄。
誰に対しても共感的応答したらうまくいくなんてのは、ありえるか?
多分、そういう地獄ができてますよ。
と橋本久仁彦さんは言う。
先日、うちの奥さんが開いた「くにちゃんと一日過ごそう。の会」での一言。
友人、佐川友美さんが書き起こしてくれたその日の記録を読みながら、どうしてそんなにこの記事に惹かれるのだろうかと考えた。
思い出すのは、先週の日曜日に開催した『聞くことの愉しみ、聞くことの深み』<序々>での出来事だ。
この場で主要なテーマになったのは「侵入」「土足で入る」という行為。
繊細な人たちの大切に守っている領域に踏み込むこと。その行為によって、こわして台無しにしてしまうこと。みなそれを恐れていた。
また、本人は言われてよかったと思っている厳しい指摘をまわりの人たちが「侵入」と呼んだり、誰かに言いたいことを「それは土足で入ることだから」と飲み込んだりする現状も確認された。
僕自身はこの日、その「侵入」であり「土足で入る」行為をしたと思う。
具体的には、相手の大事にしている領域を壊してでも、厳しい指摘をする側にまわったのだ。
それは、繊細な蝶の羽を握りつぶすようなことだったかもしれない。
しかし、言わずにはおれなかった。
ずっと本当に思っていたことだったから。
「あなたはやさしくて、いい人で、何の問題もない。だから、何も言えなくて、さびしくて仕方がない」
僕はそう言って泣いた。
「やさしくて」「いい人」の言う「ありがとう」が、なんでこんなに寂しいんだろう。どうして「あなたは入ってこないでください」っていうふうに聞こえてしまうのだろう。
いっしょにいるのに、距離がある。
にこにこ笑っているけれど、なんだか苦しい。
何の問題もないから、あまりにも「いい人」だから、近づけない。
自分の感受性くらい
自分で守れ ばかものよ
これは茨木のり子の有名な詩だ。
この前の行には「わずかに光る尊厳の放棄」とある。
追従して調子に乗っているのだろうか、僕はこんなふうに言いたくなった。
土足で踏み込まずに
人と付き合えるか ばかやろう
相手の大事な領域に土足で踏み込んで「出ろ」と叱られること。
それがなければ、人のことなんてわからないと僕は思う。
その前に上手に推し量ったりして、適切な距離をとることが僕にはどうしてもできない。「侵入」を怖がってそうしようとしたけれど、誰ともつながれなくなったから。
乱暴者、荒くれ者、人でなし。
いまの「やさしい」世ではそんなふうに言われてしまうかもしれない。
でも、あなたたちのいう「やさしい」は本当にやさしいんだろうか。
あなたたちのしている配慮が、本当に人の尊厳を守っているのだろうか。
このまま土足でお邪魔していいかい?
裸足の方が汚れているんだ
(竹原ピストル『RAIN』より)
「ありがとう」と言って「いい人」になって「侵入」者を締め出す人がいる。その行為を「侵入」と呼んで「共感的応答」を求める人がいる。
そんなふうにして、その人たちの大切なものは守られていく。
誰にも触れられることのないまま。
これが地獄だ。「やさしい」地獄。
彼らは言う。
わたしの大切なものは、そんな荒々しいやり方ではこわれてしまうのです、と。どうぞ繊細に、丁寧に扱ってください、と。
本当だろうか。
あんたの大切なものは、そんなにやわで弱いものなのだろうか。
「自分の感受性くらい
自分でまもれ ばかものよ」
僕は41年生きてきたけれど「侵入」された記憶も「土足で入られた」記憶も残っていない。あったかもしれないけれど、そのことを根に持つメンタリティもない。
だから、僕たちは、本当はそんなにやわじゃないんだと勝手に思っている。
だから僕は、本当に大事に思っている人には、土足でずかずか踏み込んでしまうのだと思う。
もしそんなことがあったら、どうか叱ってくれ。
すまないけど、そっからしかはじめられないんだ。