人として_

人として。

昨日の記事、

を書いたあとも、まだ吉本の二つの会見を観ていた。

そして、芸人さん二人の会見の最終盤、レポーターから「応援しています、という声が届いています」と聞いた時の、田村亮さんの泣き崩れる姿とその後の言葉にやられた。

「このあと自分がどうなるとかは、ほんとに、どうでもよくて、それを観ててくれた方が『応援している』と言ってくれたことは、今後別にどんな活動をしていくとかほんとに考えていないですけども、生きるにあたってとても糧になる言葉だと思います。」

生きるにあたって、糧になる言葉。

それを感じられるのは、亮さんがあの亮さんだったからだと思う。
大事なものをすべて捨てる覚悟で「嘘をつかない」と決めた亮さんだったからこそ。

そして、こうして感じたり考えたりするうちに、この話はまったく自分の話だということに気づく。


僕はもともと、吉本の社長さんのような人だった。
あるいは、吉本の顧問弁護士さん(僕は会見の中で、この人が一番嫌いだ)により似ていたかもしれない。

どういう人かというと、

人とつながれない。人を感じることができない人だ。

どんなに親しくしていても、いつも人との間に壁があって、時には「他人は邪魔だ」とすら思っていた。他人の気持ちどころか自分を感じることもできず、それゆえにか「自分さえよければ、楽しければいい」と当然のように考えていた。

長らく僕をみてくれている師、橋本久仁彦さんは、当時の僕を「サイボーグのようだった」と言うが、僕も同感だ。

いくつもの船を座礁させてもびくともしない氷山のように、僕は固く凍りつき、他者が存在することを拒んでいた。

それが溶けたのは、ごく最近のことだ。

自分の中に他者がいる人といない人の違い。
二つの会見を見比べれば、それがすぐに分かる。

話していることの伝わり方もそうだけれど、なにより黙って次の言葉を探しているとき、

芸人さん(特に宮迫さん)は
「松本さんだったら、後輩だったら、家族だったら、相方だったらどう思うか」
と大事な人を思い浮かべて、激しい問答をしているように見える。

社長は
「どう言えば、ここを切り抜けられるか」
と考えているように見える。

同じ詰まり方に見えても、方向は真逆だ。
そして、それは出てくる答えの質を決める。


人はもしかしたら、自分の中に大事な人がいればいるほど、人間らしくなっていけるのかもしれない。

そして、いない人には「いない」という事実だけが返る。

僕は企業法務や広報の仕事をしたこともあって、会見から人間味が失われていく事情もなんとなく分かる。”戦略”としては、人間味を失わせた方が組織を守りやすいのかもしれない。

でも、今回のようなどん底には、そこまでに築いてきた関係の結果が露わになる。

法的に、広報対応的に、どんなに適切な対応をとろうとも、そして、仮にそれで切り抜けられたとしても、

つながっていない人の言葉は、寒い。

そして、その熱のなさのまま切り抜けられてしまうと、またさらなるどん底を招くような気がする。(例えば、某国の総理大臣のように)


個人と企業は違うかもしれないが、少なくとも、僕の場合はそうだった。

氷のままでいるか。溶けることができるか。
それは人生の質を圧倒的に変える。「生きるにあたって糧になる言葉」を受け取ることができるのは、溶けた人だけだ。

氷を溶かすには熱がいる。
人にとって、それは他者だ。

今回の会見の提案は、ダウンタウン松本さんから岡本社長への「愛」なのかもしれない。そういう厳しい熱にさらされて、溶けることができれば、人は変われる。

その熱は、ただ批判するだけの人の炎と違って、実はやさしい。
罰のように見えて、実は救いだったりする。


これらの会見には、実にさまざまな人が登場する。
その誰もが自分のようでもあり、自分とは違う。

宮迫さん、亮さん、岡本社長、松本さん、相方さん、ご家族、レポーター、藤原副社長、顧問弁護士さん、スタッフさん、それを観ている人たち。

あなたは、誰に似ていますか。

そして、誰になりたいですか。

僕はとても難しいと思うけれど、やっぱり亮さんのようであれたらと思います。

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