聞かれないということ。
なぜなら、聞かれないということは、単に自分の話を聞かれていないだけでなく、話している自分の存在そのものを否定されたこととして認識されるからです。
昨日、タイムラインに流れてきたこの記事の中の一文。
全くそうだ、と思った。
そして、人間関係のトラブルは、
「聞いてもらえない」
「こっちこそ聞いてもらえない」
「聞けよ!」
「そっちこそ聞けよ!」
の応酬でできているのだな、と思った。
だれも人の話なんて聞きたいとは思っていないんだと、そのとき、身に沁みて感じました。ただ、聞いてほしいんだ、自分の話を聞いてほしいんだと。(位置: 285)
同じく昨日、こんなツイートをした。
「歌えない」けど「歌いたい」と感じている人のための個人セッション、『歌い手冥利』について書いた投稿だ。
このセッションで、僕はしばしば、来てくれた人の「初ライブの観客」になる。「人前で歌ったことがない」という人が大半だからだ。
そのライブは本当によくて、自分だけで独占するのはもったいなくて、すぐに
「外で歌う機会はないの?」
と言ってしまう。
僕自身、ライブがそんなに得意じゃないのに。
でも、人は「聴いてくれる」人といると、自然にのびのびとしていく。歌うことは呼吸と同じようなものだから「息を吐いてもいいんだ」と感じられたら、勝手に出てくる(もちろん「聴いてくれるんだ」と心身ともに感じてもらえるような関わりは必要なのだけれど)。
自分自身が「聞かれない」と「聞いてもらえた」という経験を繰り返して培ったこの認識が、僕のすべての仕事の根底にある。
昨日、『あなたのうた』『歌い手冥利』『作曲事始』に次ぐ、新しい仕事をはじめた。
15分語っていただいたことを録音して、文字起こしして、いっしょに時間をかけて丁寧に読んでいく。
そんな「自分を読む」読書会をオンラインで行う、というものだ。
人は、自分の語ったことに驚くほど無自覚だ。
語った15分の中にどれほどのことが起きているかについては、さらに。
僕がこのことを知ったのは、大阪の橋本久仁彦さんのところで「未二観」(みにかん)というものに触れたからだ。
もう五年以上前になるか、「辿る」という関わり方を通じて現れてくる驚くべき事実に、僕は夢中になった。そして、いまでも橋本さんの下に通い、発見と探求を深めている。
「未二」、未だ二つに分かれていないところからの視線でみたら、15分の語りは、人生は、どんなふうに見えてくるか。
いま懸命に見ようとしているそれは、いままで自分が知っていた人生とはまるで違う、不思議さと新鮮さに満ちた世界のように思えている。
それと同じ驚きを、この仕事で分かち合えたらと思う。
そして「自分も人の話を聞いてみようかな」と思う人が、一人でも増えてくれたら、うれしい。
もし、相手があなたにとことん聞かれたと感じたとしたら、その経験は、その人のこれからの人生を変えないではいないことでしょう。 そして、あなた自身のこれからの人生もまた、変えないではいないのです。(位置: 297)
そんなふうにして、人と人は真剣に聞きあうことで変わっていける存在だから。
この間、『歌い手冥利』に来てくれた加藤彩乃さんの手書きの歌詞に、妙に惹かれて、しばしば眺めている。
ここでいう「辿ってゆけるかな」というのと、未二観での「辿り」は同じものだと思う。
一日一日をいとおしむように、一言一言を辿る。
そして「最後の瞬きのその時」、そばにいるためには、その人の言葉がちゃんと聞ける(辿れる)必要がある。
たとえ、もう言葉を話すことができなくても。
㐧二音楽室の仕事を通じて出会う人たちと「聞き合う」ことで、そんな人間関係を築いていきたい。
僕はそのために仕事をしているんだと思う。