東大医学部→脳神経外科医→データサイエンティスト→起業というキャリアの原点
今回のnote記事では、私が起業を志した理由と病院をやめるまでの葛藤と決意を紹介します。
大学時代に起業を決意
医療の未来への危機感
大学時代は医学部のアメリカンフットボールに所属し、6年間を全うしました。4年生のときにはキャプテンを務め、医科歯科リーグ優勝を成し遂げました。
自分にとってもターニングポイントであり、5年生のころは読書に明け暮れました。経済、行政、政治、歴史、そして文化人類学。学んでいく中で、日本の高齢化/医療費高騰により「このままだと日本の医療は持続できない」という強い危機感を抱いたのを鮮明に覚えています。
当初は厚労省/医系技官のキャリアを考え、先輩の医系技官の話を聞いたり、説明会に行ったりしました。しかし自分の性格的に官僚は合っていないと感じ、その選択肢はなくなりました。
北原茂実先生との出逢い
そんなとき、東大医学部の大先輩で脳神経外科医でもある北原茂実の著書『「病院」がトヨタを超える日 医療は日本を救う輸出産業になる!』に出逢い、衝撃を受けました。
北原先生は、1985年に北原脳外科病院(現在は北原国際病院)を設立しました。当初から、
「世のため人のため、よりよい医療をより安く」
「日本の医療を輸出産業に育てる」
という2つの理念を掲げ、16年の時を経て2つ目の理念を実現するべく、まさにカンボジアに病院を建設しようとしていたタイミングでした。私は北原先生の講演会を探し出し、たしか八王子の青年会向けの講演会に潜り込んで、直接講演を聞きました。
当時自分なりに勉強して、周りの学生や社会人と話していて感じていたことがあります。社会の課題に気づいている人、未来を憂いている人、論ずることのできる人はたくさんいました。しかし気づいている課題に対して、実際に行動を起こしている人は稀でした。私は論ずるだけではなく、社会課題の解決に対して行動し続ける人間で在りたい、と強く念じました。そんな中、北原先生は16年間その課題意識と理念を持ち続け、自分の事業を育てて力を蓄え、まさにチャレンジしている姿に感銘を受けたのです。
だから私は、大学5年生のとき、「自分は事業家になろう」と決心しました。自分が行う事業を通じて社会に貢献する人生を選択しました。
初期研修医時代の決心
初めての社会人/医師生活
医学部卒業後の初期研修は、茨城県笠間市という10万人に満たない地域の茨城県立中央病院で実施しました。初めての医師生活、社会人生活ということで、先輩医師に熱く指導してもらったり、叱られたりしながら研鑽を積みました。
その時は医療と介護の隔たりに課題を感じ、1年目で慣れない土地でしたが、介護に関わる方々と医療の連携に関わる活動、講演会など行っていました。
脳神経外科を選んだ理由
初期研修2年目は東大病院に戻り、半ばモラトリアムに近い形で自分の進路について考えました。当時起業するネタや決意もなく、後期研修をせずに外資系コンサルに行くのもしっくりといかず、後期研修をするための診療科選びをしていました。そんな中、東大病院でまわった脳神経外科の2ヶ月間は素敵な先輩医師に恵まれ、とても充実した期間でした。
2年目の秋には脳神経外科に行こうと決めました。その理由は2つあり、1つは個人的な嗜好に合っていたことです。脳神経外科医達の決断力やテンポの良い診療スタイルが好きでした。手術、つまり自らの手を以って治療することは、医師としての充実感を得ることができました。そして何よりも、自分にとって脳は好奇心を駆り立てる対象でもありました。今でも機会があれば脳科学の本は読みますし、後輩に勧められた『脳は世界をどう見ているのか 知能の謎を解く「1000の脳」理論』はとても面白かったです。
2022年はMidjourneyやDALL·E 2といった画像生成AI躍進の年でした。著者であるジェフ・ホーキンスは、この革新を推進したAIエンジニア達の拠り所となる考え方を打ち出した方です。
さて、話を戻します。私が脳神経外科に決めた理由の2つ目として、北原先生の影響はやはり大きかったです。その道を辿ることで、自分自身の道も導かれていくのではないか、という期待を持っていました。
脳外科医をやめた決断
自らが医師たる所以
東大の脳神経外科医局に入局し、関西医科大学附属枚方病院(現在は関西医科大学附属病院)で脳神経外科医として働き始めました。一方で「事業家」への想いは抱き続け、もやもやを隠し、騙し騙しやってきた自分も存在していました。
小学校で塾に通い始め、中高一貫校、大学医学部、初期研修、医局(後期研修)という謂わば王道を歩んできた自分にとって、敷かれたレールを外れる勇気もありませんでした。
そして今振り返ると、私は自分が医師たる所以を、「脳神経外科医」というスペシャルティや「専門医」という肩書にすがろうとしていた部分もありました。自分が自分に対して、医師として中途半端だという想いを抱いてしまうことを恐れていました。
ある日のひらめき
ある日、外勤である病院の外来を行いました。自分の外来を通い続けている患者さんがいて、「その方に寄り添えたな。不安を少しは解消できたかな」と思える出来事がありました。その帰り道、「今日は良い仕事をしたな」と、患者さんに役に立った充足感がありました。
と同時に、「自分は医師なんだ」と実感したことを、今でも当時の夕闇の情景と共に思い出すことができます。この瞬間が、自分の医師としてのアイデンティティが確立したときでした。
続くひらめきが自分の頭になだれ込んできました。自分はたとえ病院の外に飛び出しても、医師で在り続けることができる。だとしたら、病院を、医局をやめよう。「事業家」になるための道を探そう。という決断に自然と繋がりました。
すぐに大学の先輩の沖山さんに連絡し、東京で会って話して、医療ITベンチャーのメドレーへの入職が決まり、今に至っています。
今思うと、その時の直感は正しかったです。私が医師であり、臨床を大切にしているからこそ、今のデータックの事業が形作られ、業界内ではユニークなポジションを築くことができました。「臨床」こそデータックの原点であり、強みでもあり、今後はこの強みをより強固で持続的なビジネスモデルに組み込んでいきます。
以上、私が起業を志した理由と病院をやめるまでの葛藤と決意の記事でした。
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