母親の命日に思うことは「なんか話したい」と言う気持ち。
建国記念日の今日は、3年前から母の命日となった。思い出したから、書きたいまま、思いつくまま書いてみようと思う。
祖父や祖母が亡くなったのは、小学生の頃だったので覚えているが、その時どう思ったのかは思い出せない。
翌年から毎年夏と冬に帰省していた、田舎に帰れなくなった(=祖父祖母が亡くなったので、親の兄弟が家を継いで実家ではなくなった。)ことで、もういないんだなと思った。
でも悲しくは多分なかった。うっすらとしか覚えてないからだろう。
では、自分の親の時はどうだっただろう…。
長年闘病していたから、実際はもう親が長くないのはわかっていたし、亡くなる瞬間ではなかったが、だいぶギリギリまでは一緒にいた。
やれることは、それなりにやった。という気持ちもあり、闘病していた本人も周りの家族も頑張ったよね、っていう気持ちはあったと思う。
そして病院で亡くなった。
世の中でよく言われる通り、そこからは火葬してお墓におさめるまで、ものすごいスピードで進んでいく。悲しむ時間はあまりない。
一連の出来事が終わると、日常がもどるが最初の数日は現実かと思うぐらいに母の日常の夢を見て、起きていないのが悲しかった。
でも不思議なもので、やっぱり自分はそれなりに年を取っているからか、ふと悲しさや寂しさで涙が出ることはあっても、思うほど影響はなかった。
そう思っていたけど、今この文章を書いていて思う。年月がたつほど寂しいし、涙が止まらない。
影響が少ないなんてことはなくって、衝動的に文章に、気持ちを描きたくなる程度には、気持ちがぶわぁっと溢れてくる。
今この瞬間、猛烈に亡くなった母と話がしたい。
2019年に亡くなった母と話していた「新しい年号・東京オリンピック」の話しとか、住宅を購入したこととか。
いまは世界中、新種の病気のせいで大変なことになってるんだよとか。
なんでもいいから、すごく話したいなと思う。
よく私の話を「まあまあ」って聞いてくれて、「ちょっと落ち着きなさい」と言ってくれたことを思い出す。
なんか話したいなぁ。
私が話すだけではなく、今の世の中を見て母ならなんて言うんだろうと、何を思うのかを聞いてみたいよ。
命日に思うことは、影響は後からやってくることもある。年月がたっても当日はすごく悲しいさや寂しさがある言うこと。
良かったことなんてたくさんある。
けど今は、良い悪いの思い出を思い浮かべるよりも先に、なんか悲しくて寂しくて、話したい気持ちでいっぱいいっぱいになってる。
いつか、もっと時間が経ったら、よかったことから思い出せるといいな。