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【シン・エヴァネタバレ感想】シンジが差し伸べられた手を取り、握り返す強さを手に入れたこと

『シン・エヴァンゲリオン:||』を2回ほど鑑賞し、いろいろな方の考察など読みふけったので、感想と少しばかりの考察を書きたいと思う。

「鑑賞後、茫然自失となって考察ブログやツイートを読み漁っては寝不足になり、「私にとってのエヴァとは?」と深く思いを巡らせ、モチーフとなったネタに手を出し、過去作に手を出し、ずっとエヴァのことを考え続け、みんな一つのLCLに還る感覚(考察がまとまって来た)を覚える」までがエヴァなのだと実感した本作だった。

エヴァの魅力は「なんとしても理解したいという考察厨と設定厨の欲望を満たす」という面があった。日常生活がエヴァを考えることに費やされるこの懐かしさまで含めて、今回は一個人の考察として読んで頂ければ幸いだ。

(1)全てのエヴァンゲリオンを内包した「さようなら」

個人の感想としてまず、「さらば、全てのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーがぴったりすぎることを述べたい。

TV版、旧劇場版、漫画、はてはゲームに至るまでの「新世紀エヴァンゲリオン」というコンテンツがギュッと本作に凝縮されていたからだ。

まことの意味で「全て」であったし、今作が「さらば」なのであろう。

「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」とつぶやくシンジのセリフもメタ的な意味が含まれていた。

全部を履修しなくとも、あなたも「ここはTV版だ、あそこは漫画版を示唆している…」と気付く箇所があったと思う。
私はゲーム以外のメディアミックスをできる限り追いかけたつもりだが、なにせ展開が広く歴史もあるので自信はない。

それでも興奮に興奮を重ねてしまい、何度も座席から立ち上がってうぉんうぉん泣き叫びたい気持ちになった。

「庵野さんが、エヴァという作品が、私たちのエヴァをそれぞれ肯定してくれた」と感じたからだ。

25年という長い時間の中で、私たちは多方面からエヴァという作品にアプローチし、「僕の私のエヴァンゲリオン」を構成していた。

エヴァンゲリオンという世界の汎用性に溺れてしまったオタクのひとりとして、さまざまな世界線を肯定して終わってくれたことに感謝しかないのである。

旧劇公開当時、私はまだ思春期の入り口がやっと見えたか見えないか…の小学生であった。
アスカとシンジの関係性や、リツコのゲンドウへの情念などお子様に理解できようはずもなく、だいぶ心に傷を負ってしまったことを覚えている。

あんなラストを見せられてしまったものだから、「エヴァを否定したい時期」があった。TVシリーズを夢中になって視聴し、美しくて儚い綾波レイに憧れた子供には、庵野さんの心の傷まで汲む余力と経験がなかったのだ(プロフェッショナルで語られていた誹謗中傷のくだりは本当に胸が痛む)

たくさんの諸姉諸兄がそうであったように、私もエヴァと一緒に大人になった。
チルドレンに心寄せる時期、ミサトやリツコをかっこ良いと思う時期など経て、今はチルドレンの境遇が傷ましくいっそ親になりたい時期である。愛を与えて、ちょう褒めぎり、シンジやアスカを自己肯定感バキバキの子に育てたい。

私たちも純粋無垢のアドバンスドエヴァオタクシリーズである。もうひたすら、彼らが愛しい。

(2)他者を気遣う優しさを持った大人へ

そう、我々は大人になったのである。汚れちまつた悲しみに、なのである。
そしてキレッキレだった庵野さんも、私たちに歩み寄ってくれたのである。

ケンスケとトウジ、そして委員長の登場は本当に嬉しかった。

呪いの身体になって成長の止まったシンジを受けれ入れ、「友達だろ」と言いつつ大人の目線で心配をしている。
アヤナミレイ(仮称)を「そっくりさん」として肯定し、成長する姿を愛でている。
その昔に子供であった彼らが、子供のまま苦しむシンジたちを守ろうとしているのだ。

かつてシンジを殴り飛ばしたトウジは「事情を聞いたがよくわからない、けれどシンジが生きていて嬉しい」と言う。
私はトウジもシンジがニアサードインパクトを起こしたトリガーであることを知っていたと思う。でなければ、成長の止まったシンジが抜け殻同然であらわれて混乱するであろう。
知っているからこそ、どっしり受け入れてくれたのだ。
「事情を知る余力もなく、怒りに任せて人を傷つけた子供」であったトウジの成長である。

ケンスケなんて、つらい経験ばかりのアスカを深い懐で包み込んでやる度量を身に着けているのだ。お前どうしたんだ、いつの間に良い男になりやがって。

エヴァは「大人の都合で振り回される子供たちの物語」でもあったはずだが、そこに「子供たちを受け入れて、優しくする存在」を登場させたのだ。

これはなんというか、ちょっと感慨深い気持ちになった。

尖ったナイフのような中二病であった我々だって、社会に揉まれて随分と丸くなったでしょう。彼らと自分を重ねて、少しジーンとなった。

ゲンドウの独白もそうである。なまじ優秀なコミュ障であったがために、ゼーレに目をつけられて人類補完計画なんぞに手を出してしまった男が碇ゲンドウだが、彼もきちんと本作で大人になり、シンジを受け入れることができた。

「大人になれ」とブーメランすぎる大人げないことを言い放ったゲンドウが、「大人になったな」としみじみつぶやく姿は父親のそれである。シンジの中にあったユイの面影に気付いたことで、息子を真に愛せるようになったのだ。

そして、なによりも主人公のシンジの成長だ。
Qでゴリゴリ悲惨な目に合い続け、世界と断絶してしまったシンジだが、アヤナミの存在と大人たちの優しさに触れてとうとう「他者と対話しよう」と試みるのである。

コミュニケーションとは対話からはじまる。相手と視線を交わし、言葉を紡いで、理解することなのだ。

それぞれのキャラクターと対話したシンジは、それぞれのキャラクターが背負って来た人生と傷に触れ、理解することを覚えたのである。

私たちもそうであったように、だ。
大人になるって悪いことばかりじゃない。

(3)差し伸べられた手を取り、そして握り返す強さを手に入れたこと

本作で印象的だったのは、委員長がアヤナミレイ(仮称)に「おまじない」を教えるシーンである。
人との触れ合いを知らないアヤナミが、少しずつ他者と交わるために知っていったコミュニケーションこそ「おまじない」と呼ばれるあいさつ達だ。

あいさつは大事だ。アイサツはしたら、返さねばならない。古事記にも書いてある。

中でも「手を握る」描写について考えたい。

アヤナミから「仲良くなるためのおまじない」を施されたシンジはいったん拒絶してしまうが、世界とまた関わり合うことを決めたシンジは他人と触れ合うことに慣れ始めていく。

加持リョウジ(息子)と親しげに寄り添い、ミサトと抱き合うシーンを経て、受動的であったシンジが能動的なキャラクターへと変化をしているのだ。

物理的なS-DAT(TV版から登場するこのキーアイテムは何度もシンジの手を離れ、そのたび誰かの手によってシンジの元へ戻って来る)を介在するが、シンジは「これは捨てるものじゃなく、返すものだった」と父親に手を差し伸べた。

そして「ひたすら与えてくれた存在」であるカヲルに手を差し伸べ、彼の心を癒やしている。
あのカヲルくんが涙するシーンをよもや公式で見られるなど、オタクたち予想できただろうか?
カヲルファン、大丈夫?息してる?
シンジの幸せのために世界をやり直し続けるという健気な彼も、自分の幸せを願っていたのである。本当に幸せになってくれ。

アスカへ「僕も好きだった」と気遣う姿も、シンジさんマジ大人っす。好きという言葉にもいろんな意味があることをわかって言ってそうなところ、マジ大人っすわ。
あの時のオリジナルとクローンが融合して成長したアスカ、本当に可愛かったですね。天使がいました。
「早く言え、バカシンジ!」と言いたげで、少し切ない余韻。最高でした。

14年間も初号機でシンジを待っていたレイの尊さも限界突破していた。ツバメの人形を抱いているということは、アヤナミとも融合したのだろう。そう、綾波は綾波なのだ。存在が美しい。大好きだよ、愛してるよ。

代わる代わるさまざまな形で差し伸べられた優しさを受け取り、シンジはなんと与えることをしているのだ。

ただ与えられるだけではなく、返して与える。

視野が広くなり、余裕ができるからこそなので、シンジはもう立派に空白の14年分成長したのかもしれない。

最後の宇部新川駅でのシーンはまさしく大人になったシンジが、マリの手を握り返して、彼女を駅の外へと連れ出した。

マリも陰ながらシンジを守り続けた人物である。想い人であったユイの意思を受け継ぎ、守る立場にあった。
「仕組まれた運命の子供たち」ではなく、マリは「ユイの意思を継ぐために自ら仕組まれた」のではないかと思う。

彼女もクローンの可能性があるが、だとしてもオリジナルのマリと意識は融合しているのではないだろうか。

そんなマリの手を取るだけではなく、自分の意思で引っ張って走るシンジの姿はもうマジのガチで大人である。
私たちのエヴァはこれでケリが着いたのだ、感無量であった。

ラストの描写についてはいろいろな考察があるが、個人的には決まった相手だったり示唆するものがないのではと思っている。

「全てのエヴァンゲリオン」を肯定してくれた本作なので、私たちが望む姿と形を描いても良いのではないだろうか。

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