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第1話『ネットワークビジネス20年間!うまくいかなかった私がネット集客のみでうまくいった秘密』

【専業主婦でネットワークビジネスをやるも決してうまくいかなかった】

そんな私が、ネット集客だけで売り上げが上がり続けている。何より、私自身が一番衝撃を受けているのです。その理由は何なのか?

その前に、少しだけ私の生い立ちの話をしたいと思います。

【歴史上の人物の末裔として生まれる】

実は私は歴史上超有名な人物の末裔なんです。「赤井悪右衛門」って聞いたことないですか?

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する歴史上の人物です。

明智光秀に唯一勝利した武将としても有名
3回めの戦の前に病死
4歳の嫡男は山奥に逃げて逃げて逃げのがれ、
四代隠れて過ごしたのち泰平の世になった時にです。

今の実家の家を再建して現在16代目←ここ私の父
300年続いた家の娘なのです。
少し由緒あるでしょ?😆

【玄関の柱にも百姓一揆の傷】


今も残っています。歴史を感じさせるこの家が私は大好きです。
平屋で建坪が300坪あります。幼い時には家の中で普通に隠れんぼできる広さでした。
歴史を感じさせるものが今も残っています。
現在も襖には山岡鉄舟の落書き?ww

夏でもクーラーが必要無いくらい涼しく、虫のこえ、風鈴の音が今も風情を感じさせる素敵な村なのです。たぬきや貂(てん)などの野生動物とも出会え
後から私は知る事となるのですが、司馬遼太郎の短編小説「貂の皮」という題材にもなった人物こそ私の先祖です。

「このような歴史ある家や血筋を守りたい!」

と、心のどこかで常に思っていたかもしれません。

私は男子じゃない、しかも長女でもない中で私はこの家を守っていくことは不可能だと諦めてました。
しかし、「この家を守っていけるのは私しかいない!」と感じていたのも事実です。


【母とバレーが教えてくれた事】

そんな私の
学生時代はスポーツにいそしむ少女でした。

中学でバレーボールに出会いのめり込みました。その当時は大ヒットアニメ「アタック№1」が大人気の時代でその主人公に憧れて、日々 練習に励んでいました。

当時の監督からの指導は、今では考えられないくらいの《スパルタ教育》で、殴られ蹴られは当たり前!日常茶飯事の出来事でした。

バレーに打ち込んでた高校1年の蝉の鳴く暑い夏に大好きだった母が亡くなりました。
悲しみに打ちひしがれてた私のもとを父は愛人と去っていきました。
そこから私たち姉妹は祖父母に育てられることになったのです。

悲しみを忘れるために一層バレーボールに打ち込みました。

実はその数年前、まだ母が元気で、まさかそんなに早い別れが来るなんて思ってもいなかった頃・・・

私はよく父とぶつかり、喧嘩をして家出を繰り返していたのです。
病魔の迫りくる母の体に負担をかけたのかもしれない。その頃の事を思い出すと、今でも胸が痛いです。

そして母の最後の言葉は・・・

「逃げたらあかんよ!」

でした。
この言葉は、今も胸に残っています。

中学から短大まで本気でこのバレーボールにうちこんでいた私に、思ってもみないことが起こりました。

高校3年の引退する2ヶ月前にキャップテンに抜擢されたのです。
私にとってこれは非常に驚きでした。

なぜなら私は、小さな時から内弁慶でありリーダータイプでは全くなかったからです。ですから「まさか自分が?」と困惑したのです。
周りの友人たちの「なぜ?」という不審の表情を昨日の事のように覚えています。

いまだになぜ抜擢されたのか?は分からないのですが、自分の中で努力を継続したことについては自信があります。

私は決して天才肌ではありませんでした。
毎日、夜天井に向かって寝ながらパスをしたり、お風呂の中でも握力を鍛えるための運動を毎日し続けました。
そしてなにより、罰当たりですが母を忘れるために初七日、四十九日忌は合宿に行っていました。

こんな日の目を見ない日常の努力や気持ちがいきなりキャップテンの任命という成果によって返ってきた

努力は裏切らない!

と私の心に刻まれました。

わたしの潜在意識に埋もれたリーダーとしての素質を初めて見出してくれたのがこの時の監督だといまだに感謝を忘れません。

この出来事のおかけで、内弁慶人見知りの私が「リーダーとしての自信」も付き、そこからの人生ではどこへいっても人をまとめる立場が全うできたと思います。

【運命の結婚】

8年間のバレー人生も就職と同時に卒業して、私は普通のOLとして平凡な毎日を過ごしていました。

わたしの家では、恋愛結婚はご法度でした。

だからお見合いの話は何度もありました。しかし私はその習わしがどうしても嫌で今の主人と一族初の恋愛結婚をしました。

初めて私が主人を紹介したとき、祖父や親族からは、「どこの馬の骨ともわからない男と結婚なんて!」と、まるでテレビドラマのようなセリフを言われたのです。

これも今となってはかけがえのない思い出になりました。

誰に何と言われようと、私は自分の人を見る目には自信があり、自分の選んだ人に間違いはないという確信があったのです。

後日談ではありますが、私と主人は結ばれる運命だったと今では思っています。

私を育ててくれた祖父が戦時下で陸軍中尉として三重県志摩に赴任したけど病に倒れ、
地元お寺で療養中、その地域の診療所で看護師として勤めていたのが、実は主人の母だったのです。
その時に面識があったか?どうかはわかりません。
しかし主人の母は私たちの結婚式の時、祖父のモーニング姿を見て何故か?涙が止まらなかったのです。

当時35歳の祖父と18歳の看護師であった義母はおそらく運命でつながっていたのだと感じます。

そしてその出会いから30年後、その孫の私と息子の主人が結婚する運びとなりました。

『運命の出会い』ってあるのです。

『キセキ』と言うのを私は信じています。

そのことを感じていたのか?思い出したのか?は不明ですが、最初は反対していた家長の祖父が、途中からこの結婚に賛成してくれたので

もはや親族の誰もが私たちの結婚に異を唱える人はいませんでした。

私たちは祝福の嵐に包まれたのです。

わたしは運命の出会いってあると確信しています。

キセキって起こるものだし、起こすものだと思っています。

キセキの結婚からわたしは主婦として2人の子供にも恵まれ、たまの休みにはママさんバレーにいそしみ、「家の事」「一族の事」を

忘れかけていた時…

を追いかける出来事に出会ったのです。

続きは、第2話で話しますね。


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