
食べ方・(家畜の)生き方を考える
20年ほど前にゆるい菜食主義者になった。その理由は単に減量のため、というのがきっかけであった。人が太るのは単にその人の身体が必要としているカロリー以上の摂取量の問題だと思っています。自分の基礎代謝が幾つかなど計算なんかしなくても、日本人の平均的なそれによりアバウトに当てはめれば良いのです。そして太ってきたら+に痩せてきたらマイナスになっていると思えば簡単です。ダイエット本など不要です。足し算引き算が出来ればいい。
本当に減量したいならば、自分の目標の10キロ痩せるために一時的にダイエットする考えはおかしい。仮にそれを達成出来たら、元のライフスタイルや食生活に戻る、これではダメだと思わないのでしょうか。元の生活や食事に戻ったらまた10キロプラスになるのは自明です。
ダイエットとは、根本的に自分の生き方が間違っていると気がつくことが出来るかどうかが鍵なのです。本能に負けて堕落した生活になる、自分の信念が弱いから出来ない、で終わってしまう。人間は何か一つを決めたことをやり通すことは、それなりの努力が必要です。直ぐに楽な方へ流れるのが人間なのだから。一日二食でなるべく穀物菜食、ダイエットは誰でも成功します。
だから一神教の人たちは必ず挨拶のように「アイ・ラブ・ユウ」と一日に何回も言い、回教徒の人たちは一日に5回お祈りをしているのです。忘れないように、自分の決めたことや信念をいつも身近に置く必要があるのです。
多神教のアジア人などは、結婚生活も、時が経てば、それなりの「適当」な自由をお互いに見て見ぬふりをして、結婚生活を続け、家族崩壊を防いでいます。どうして欧米人の間で離婚が多いかと言うと、これが最大の問題なのです。敵か味方か、白か黒か、そこにはグレーはない。聖書にも私だけを信じなさい、と。
仏教もそうですが、嘘は大きな罪です。同じように一神教もそうなのですが、結婚の際、神に誓った生涯の伴侶と生活を共に継続することが出来ないときは、離婚しかないからです。カトリックは離婚出来ません。しかし、そこから分かれた新教・プロテスタントは離婚を問題視しません。
一神教の場合は神は一人のみ、それと同時に伴侶も一人のみ。(同時に2人以上はダメと言う意味)。カトリック教の場合は、いったん誓ったことを否定することは出来ないので、離婚が難しい訳ですが、それでも超法規的な解釈で、そもそも「結婚などしていなかった」で離婚してしまう場合もありだそうです。(回教の場合、そもそも改宗は死ですから大変です)。
イギリス国王が(名前は忘れましたが)、まだ、カトリック教を信じていた頃、新しい愛人が出来て、離婚して、愛人と結婚したい気持ちが強くなった時、最終的には周りの者からも宗教関係者からも反対された結果、離婚は無理。それなら、自分で新たな宗教を作ってしまえと、それがイギリス国教会なのですね。それで離婚が成立したと言う話は歴史の授業で習いましたね。
話がまたいつものように逸れてしまいましたが、「継続は力なり」です。ある目標を成就するには努力が必要ですが、それが長続きしない人間と絶対に諦めない人間がいるのも事実です。でも殆どの人間は普通の人たちなので、ある時は失敗・挫折。ある時は計画が成就した人生を歩んで来たと思います。
目標達成には既述のように、絶えず・忘れないように、身近に達成したい・ずっと維持したい目標を、置いておくとずっと成就しやすくなります。受験生が「必勝」とか「合格祈願」とか壁に貼る、あれと同じようなものです。
料理すると分かりますね。新しい料理法ならレシピを見ながら作ります。するとこのレシピに従っての料理のカロリーが記載されています。野菜料理は200前後で、肉料理が入ると500キロカロリーぐらいですね。あとは食材の料理法に寄ります。油を使うとそれ以上にプラス、茹でたりするとマイナスですね。
昔の少なくとも昭和の貧しかった頃の純粋?の和食は肉をあまり使いませんでした。ですから日本人なのでその昔に還ることは難しくないはずです。ハワイのシンタニ教授が提唱するシンタニ・ダイエットは菜食中心でダイエットに付きものの満腹出来ないひもじい思いはありません、と人気でした。
私が減量を決意した時とこの「シン説研究会」さんの記事にあるような家畜の記事を本やネットで読んだのはほぼ同時期でした。こうして、カレーを作るのに肉1キロを買って来て作っていた私は、ある時期から野菜カレーに変更しました。自分のためでもあり、家畜の生き方に同情した結果です。むごい、残酷です。
大乗仏教が、日本の一般の仏教が、戒律が緩やかになり、僧侶は結婚も酒もなま物も何でもOK。一般人と同じ生活が許されるようになったのはいつか知りません。でも大きなお寺の修行僧はまだ昔の戒律を守って生活をしているんですね。
私は他の宗教を批判しませんが、私の仏教を批判するなら、批判をお返しします。小乗仏教を知った・信じた日本人の人が良く言いますが、日本の僧侶は結婚もするし酒も飲むとか。それは仏教の五戒に反しているかも知れないが、だから良くないと言いたいなら、反対に小乗仏教の僧侶は肉も平気で食べる五戒の不殺生戒を犯してるのでないかと指摘します。
あくまでも日本の仏教について批判した人に対してです。こちらから敢えてこの話題は出しません。「あれは僧侶が殺している訳ではない」。という言い訳。僧侶や一般人が食べる動物を殺しているのではない。誰か特殊な人たちが殺しているのですが、それを食べる人間は問題とされない。この考えは正しい?殺人も誰かに頼めば殺人を犯していない、共犯でもない?
一方で、世界には宗教ではないが菜食主義(ヴェリタニズム)という運動もあります。生きているものを、動物性の食品を食べないという人たちのグループです。殺され・食べられてしまう動物に対しての同情・憐れみからもあると思いますが、自分の健康を考えたら同じ哺乳類を食しないという考え方。
日本の食養の人たちは殆んど菜食です。私も独学したことがありますが、森下敬一博士などは大きな魚を食べるのは動物の肉を食べるのと同じだと言ってました。小さな魚を食べる。マクロビオテックの言う「一物全体」と言う考え方。丸ごと食べられるのが理想な訳です。或いは「地産地消」ですね。その土地で採れるものをその土地の人が食べる。
輸入すると地球を汚しますね。地元産の方が新鮮です。人間の健康に貢献している訳ですし、西式・甲田式健康法の甲田光雄先生は、人類が一日2食にすれば世界が救われると提唱していました。(私はそれを減量に成功して以来20年以上続けています)。
今は緩い菜食主義者になり、基本は穀物菜食です。上記の記事のように抗生物質で密集した飼育場での家畜の病気を防ぎ、かつ抗生物質が家畜の肥満に良いと分かるとなお一層餌に混ぜている現状。更に成長が速くなれば、すぐに出荷できるし餌代も節約ということで、成長ホルモン入りの餌を与える。殺される動物の劣悪な飼育環境。屠殺方法。そして肉に残留した抗生物質やGHを食べる人間。
こういうのを知ってしまうと、肉に対する執着はなくなりました。それでも時々、出てきます。仲間と一緒にシェアする形で飲食するときなど。外食ではなるべく海のものを摂ります。この豚はメキシコ産とかアメリカ産とは分かりませんが、外食の肉はそんなもの。鶏などはこれはブラジル産でないなら良いんだけどなんか思いながら、知らないって幸せだなと友の顔を窺います。
ラム肉は牧草飼育で本来の草食動物の食性に従い飼育されているみたいです。牛も本当は草を食べたいと思いますよ。でも太らせるためにトウモロコシを仕方なく食べさせられているんですから可哀そうです。
ラム肉は高いのでめったに買って来ません。でも肉ならラムです。牛やポークは基本的には自分では買いません。鶏はそのスーパーで一番のブランド鶏のOFF価格、夕方近くにラベルで10%30%引きを貼っている時には買います。
私も自分が大事なので、トランプ大統領だけでなく、ミー・ファーストなので自分の健康を考えたら動物性の食品はなるべく控えたい。そしてRFKJrのMAHAと同じようにMake Yamato Healthy Again(MYHA)、日本及び日本人に健康体になって欲しい。同時に残酷ともいえる家畜動物の実態を知ってしまうと購買によりその業界には貢献したいとは思いません。
仏教的に考えると、動物も人間も小さな虫もひとつの命なので、人間が支配しているこの世界でも、命というものを大切にしたいと思います。
以上です。