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「君主論」6.人間は邪悪なもので、

 マキャヴェリ「君主論」と自分の思うところ、その6です。
 
(6)名君は信義を守るのが自分に不利を招く時、あるいは約束した時の動機が、すでになくなっているときは、信義を守れるものではないし、守るべきものでもない。・・・・人間は邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものでもないから、あなたの方も他人に信義を守る必要はない。
 ・・・・例えば慈悲深いとか、信義に厚いとか、人間味があるとか、裏表がないとか、敬虔だとか、そう思わさなければならないが、時と場合により、全く逆の気質に変わりうる、ないしは変わる術を心得ている、その心構えがなくてはいけない。
 
 
 この辺りの文章から、「君主論」は性悪説、目的のために手段を選ばない、マキャヴェリズムと称され、評価されてこなかった。
 
 マキャヴェリが言うように、人間は基本的に邪悪なものなのだろうか。元来哺乳動物なのだから生命維持、一族繁栄のために弱肉強食が当たり前だとも言う人もいるが、知性を備えて動物の野蛮さから脱出して性善を得たのだと言う人もいる。
 
 我が身を振り返れば、人に裏切られたこともあるし、(意識してかどうかは別だが)人を裏切ったことも多々ある・・・・と思う。人には多面性があり一概にいいか悪いかは、決めつけることは出来ないのではないか。極悪の大犯罪者も神の如き立派な人も、誰にでも裏表があり、結果としてどちらかの面が強く表れているかだけではなかろうか。
 
 君子豹変、朝令暮改、言動不一致等、よく言われているが如く、誰にでも日常よくあること、お互い様なのだ。裏切られても怒らずに冷静に対処する、逆にこちらが裏切ざるを得ないときもあるのだから。
 
 塩野七生さんが、「わが友マキャヴェッリ」の3冊で、彼が、1.何を見たか、2.何をしたか、3.何を考えたか、を解説している。以下、引用させていただく。
 マキャヴェッリは「政策論」で次のように書いている。
―――ことが祖国の存亡を賭けている場合、その手段が、正しいとか正しくないとか、寛容であるとか残酷であるとか、賞賛されるものとかそれとも恥ずべきことかなどは、一切考慮する必要はない。何に増しても優先されるべき目的は、祖国の安全と自由の維持なのだからである。―――

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