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マキャヴェッリの「君主論」

 以前に書いたマキャヴェッリ「君主論」シリーズをまとめて、創作大賞用にアップします。

 「君主論」はマキャヴェッリがフィレンツェ共和国で失脚し、隠遁生活中の1513年 - 1514年に完成したと考えられており、ウルビーノ公ロレンツォへ自分を売り込んだものだ。一国を支配する君主がどうあるべきかを、様々な局面を想定し、歴史の具体的な例も列挙して解説している。示唆に富む内容だが、面白い読み物とは言い難く、読破するにはそれなりの忍耐が必要だ。
 
 私は53歳から21年間、会社のトップを務め、失敗も成功も多々あり、諸々の経験を積み重ねてきたが、君主論においての国を会社と置き変えれば、殆どそのまま通用する。特に人の心理をどう読むかについてはとても参考になる。以下、君主論で名言と言われている文をあげて、自分の思うところを述べてみたいと思う。
 

(1)天気のいい日に嵐のことなど考えてもみないのは、人間共通の欠点である。
 
 これは、昔も今も全くこの通り、嵐がいつか来るのは当たり前なのに、殆どの人が忘れている。
 
 東日本大震災もその前にほぼ同じ場所で、何度も同程度の大災害があったことが記録に残っており、いつか必ず来るはずの大地震だった。東電の会長が建設費を抑えるために、計画を変更させて主ポンプを地下室に設置させたことが、原子炉大事件の一因になっているが、津波を予見出来なかったことは不可抗力だったと、今も法定で主張している。
 
 1990年代のバブル時、証券会社や不動産会社の人たちは、株価も土地もいつまでもずっと上がり続けると公言して日本全体を煽り、その結果、いわゆる失われた30年を招いた。今の中国は日本をはるかに上回る巨大なスケールでバブル崩壊が進行中だ。選挙のない独裁政権の対応が見ものだが、軍事力だけが突出した今のロシアのようになるのではないか、と懸念している。
 
 コロナ騒動も過去にスペイン風邪等、同様の感染症が世界で流行っている。トランプ元大統領は、米国には入ってこないと言っていたが、結果は散々だった。もっとも彼はこの件に限らず、嘘つきの常習犯ではあるが。
 
 一方、日本の対応は比較的上手くいった。特に菅首相、河野大臣のワクチン政策は成功し、オミクロン株以前の蔓延はほぼ終息した。感染拡大時のワイドショーでは連日の菅バッシングだったが、一旦感染者数が収まると、なぜこんなに減ったのでしょうか不思議ですね、など訳の分からないことを述べていた。


(2)加虐行為は一気にやってしまわなくてはいけない。・・・・ある国を奪い取るとき、征服者は当然なすべき加虐行為を、決然と一気呵成に行うがよい。その後でやり方を変え、恩義をほどこして民心を掌握せよ。いっぽう、恩義はよりよく人に味わってもらうよう、小出しにしなければならない。
 
 国を会社と、民心を社員と置き変えて読むと、時と場合にもよるが、一面の真理をとらえている。
 
 会社が苦しい時、リストラをするのは経営者の常とう手段だ。もちろん、やりたくはないだろうが、どうせやるなら一度だけ、思い切って過大にやる方がいい。状況が悪くなる都度、小出しにすると、そのたびに社員が意気消沈して社内が暗くなる。
 
 又、業績不振会社の経営者が変わった時によくやるのが、過去のつけを全て表に出し、その年度の決算を大赤字にして、翌年度以降に持ち越さない方法だ。業績不振の大企業を立て直した名経営者と言われる人は、例外なく、この手法を取っている。日産にゴーンが就任した時に、この方法でメディアの喝采を浴びた。
 
 私事で恐縮だが、新潟から東京の上場企業のトップに就任した時、まさにこれを実行した。販売の見込みのない巨額の製品在庫を抱えていたので、就任後直ちに全て廃却し、直後の決算は大赤字になった。株主や銀行には評判悪かったが、これは全て前の社長の責任だと公言し、損失を次年度以降に繰り越さなかった。
 
 いっぽう、恩義、すなわち昇給、昇格、福利厚生などの諸々は、ある程度継続的に小出しにした方が、社員の満足度が継続する。人は、よしにつけ悪しきにつけ、過去の事は時間とともに印象が薄れて慣れてしまうのだ。
  
 
(3)人が現実に生きているのと、人間がいかに生きるべきというのは、はなはだかけ離れている。・・・・人間いかに生きるべきかを見て、人が生きている現実の姿を見逃すものは破滅するのが落ちだ。自分の身を守ろうとする君主は、良くない人間にも成りえることを学ぶ必要がある。
 
 いかに生きるべきかを書いた本はいくらでもある。アドラーは、人は全て横の関係であり、縦の関係などありえない、と述べている。会社は社長も管理職も平も全て横の関係、それぞれが役割分担をして組織として機能しているのだが、自分が支配していると勘違いしている経営者が多い。学校の先生と生徒、家庭の親と子供もしかり、お互いを尊重する横の関係が基本なのである。ところが、基本は基本、残念ながら、心からそう思っている社長、先生、親はいない。
 
 私も現役時代、社員がみな横の関係であるべきとは知っていたが、現実がかけ離れていることも知っていた。結果、自分は全員横の関係だと思っている・・・・ふりをしてきた。普段は横の関係が如く振舞う。自由に意見を言ってもらうし、反対意見を真摯に聞く、自分の感情は表に出さないなど、我慢の日常だ。
 
 しかしながら時に、人事において、ある社員を明確に左遷させることも、何度かやった。理由は色々あるが、本音は人心の引き締めだ。結果は上手くいった気もするが、あの人事は失敗だと思う人もいたかもしれない。おまけにあの社長には、ある程度の反対意見を言った方が評価される、と考える社員が現れ、かたちばかリの反対意見を言う人も出て来た。何とも難しい。
 
 世に言う、理想と現実、本音と建て前・・・・であろうか。
 
  
(4)君主はけちだという世評など意に介すべきではない。・・・・大事業はすべて、けちとみられる人物の手によってしか成し遂げられていない。・・・・君主が気前のよいふるまいをするのは、かえってあなたに害になる、気前のよいという評判を通そうとすれば、必然的に散財から抜け出せなくなり、全財産を使い果たしてしまう。あげくの果てに民衆に重税をかけ・・・・
 
 
 君主を社長に置き変えると、社長はけちでなければならないという事になる。確かに、大部分の企業の社長は経費を使い過ぎる。交際費の大半は必要ないし、社用車も秘書も、ここでは書きにくいその他の諸諸も、挙げればきりがないが、全て必要ない。社長が経費を使えば、他の役員も管理職も経費を使い、歯止めが効かなくなる。結局会社全体のコスト意識が希薄になり、業績が悪化する。
 
 またまた私事で恐縮だが、上場企業のトップに就任した時、社長室を廃止して大部屋に出て、社長秘書も社用車も廃止、役員、営業の社用のカードも廃止して、交際費は事前に申請することにした。それらが金額としていくら、というより社員のコスト意識の徹底のつもりだ。前の新潟の会社で当たり前だったので何の躊躇もなかった。
 
 大企業が系列の有力企業に社長を出すとき、自社の幹部役員を出すのが普通だが、出された当人にとっては、上りのポストであり、経費を使うのが当たり前、けちになることなど、思いもしない。系列企業に役員OBを出すべきではない・・・と思う。
 
 我家庭を振り返ると、けちを意識しているわけではないが、日々の生活は質素そのもの、監視人殿はブランド物やアクセサリー類に全く関心が無い。私には過ぎた嫁だ!
 
 
 (5)君主たるものは冷酷だなどの悪評をなんら気にかけるべきではない。
・・・・懸命な君主は、もともと自分の意思に基づくべきであって、他人の思惑などに依存してはならない。ただし、恨みを買うのだけは努めて避けるべきだ。
  
 マキャヴェリはチェーザレボルジアやハンニバルの例を出して、憐れみは役に立たないが冷酷さは役に立つと述べている。今の実社会において全く同じだとは思わないが、一面の真理ではある。
 
 今の日本の経営者はどうであろうか。
財閥系名門企業の会社の社長は総じてドラスティックな施策は見えず、会社は安定してはいるが大きな発展性は見えにくい。社員からみれば、温情ある社長と言ったところ、2期4年ないし3期6年程度で交代し、単にその時期に社長だった人とのイメージだ。
 
 いっぽう、一代で起こした新進気鋭企業の社長は、総じて個性が強く、かつ冷酷な一面を持っている人が多いのではなかろうか。上手く回転している会社は、社内全体がピリッとして社長の意向が素早く徹底される。
 
 しかしながら独裁政権は不安定で企業の浮き沈みが激しい。ここで具体的な例を挙げるわけにはいかないが、過去の成功体験から抜け切れずに失敗する経営者も多い。はなはだしきは、失敗を社員のせいにして、特定の社員を冷遇して彼らの恨みを買っている・・・・に違いない。
 
 私は会社にとって、能力、性格等でその立場に相応しくないと思った人は全て退場してもらった。勿論、いろいろ気を使い、少なくとも経済的には極力配慮した。更に職務を整理して人を減らし、最終的には事務系社員を半減した。社長はにこっと笑って人を切ると言われた・・・・らしい。冷酷と思われたであろうし、恨みを持った人もいたかもしれない。
 
 
 (6)名君は信義を守るのが自分に不利を招く時、あるいは約束した時の動機が、すでになくなっているときは、信義を守れるものではないし、守るべきものでもない。・・・・人間は邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものでもないから、あなたの方も他人に信義を守る必要はない。
 ・・・・例えば慈悲深いとか、信義に厚いとか、人間味があるとか、裏表がないとか、敬虔だとか、そう思わさなければならないが、時と場合により、全く逆の気質に変わりうる、ないしは変わる術を心得ている、その心構えがなくてはいけない。
 
 この辺りの文章から、「君主論」は性悪説、目的のために手段を選ばない、マキャヴェリズムと呼称され、評価されてこなかった。
 
 マキャヴェリが言うように、人間は基本的に邪悪なものなのだろうか。元来哺乳動物なのだから生命維持のために弱肉強食が当たり前とも言う人もいるが、知性を備えて動物の野蛮さから脱出して性善を得たのだと言う人もいる。
 
 我が身を振り返れば、人に裏切られたこともあるし、(意識してかどうかは別だが)人を裏切ったことも多々ある・・・・と思う。人には多面性があり一概にいいか悪いかは、決めつけることは出来ないのではないか。極悪の大犯罪者も神の如き立派な人も、誰にでも裏表があり、結果としてどちらかの面が強く表れているかだけではなかろうか。
 
 君子豹変、朝令暮改、言動不一致等、よく言われているが如く、誰にでも日常よくあること、お互い様なのだ。裏切られても怒らずに冷静に対処する、逆にこちらが裏切ざるを得ないときもあるのだから。
 
 以下、塩野七生さんがの「わが友マキャヴェッリ」から引用させていただくと、
 マキャヴェッリは「政策論」で次のように書いている。
―――ことが祖国の存亡を賭けている場合、その手段が、正しいとか正しくないとか、寛容であるとか残酷であるとか、賞賛されるものとかそれとも恥ずべきことかなどは、一切考慮する必要はない。何に増しても優先されるべき目的は、祖国の安全と自由の維持なのだからである。―――
  
 
(7)側近が有能で誠実であれば、その君主は聡明だと評価して間違いない。・・・・ひるがえって、側近が有能でなければ、どうあってもその君主によい評価を与えるわけにはいかない。彼がこの人選で、最初の間違いをしたからである。・・・・およそ人間の頭には三つの種類がある。第一は、自分が独力で考えをめぐらせるもの、第二は他人に考えさせて、よしあしを判断するもの、第三に、自分の考えも働かず、他人にも考えさせないもの。すなわち、第一の頭脳がもっともすぐれ、第二の頭脳がややすぐれ、第三の頭脳は役たたない。
  
 会社の実体はこれほど単純ではなく、一口で有能と言っても程度は千差万別、社長が考えた結果の合否、成否も様々だ。いずれにしても、ある程度の会社になれば、全てを一人で決めるのは難しいし、時に間違いもあるから、側近の人事は極めて重要、信頼できるNO2が必須なのだ。
 
 NO2の主たる要件は、1.私利私欲がなく人として信頼できること、2.社長の意図をよく理解していること、3.社内の雰囲気、意見を把握して社長に進言できること、4.社長に言いにくい意見の受け皿になることなど際限なく、最初からそんな人はいない。だから、その立場になればそうなるだろうと見込んで選ぶのだが、なかなか難しい。
 
 私自身は50歳から2年間、大製鉄所、所長のNO2の立場だったが、合格だったかどうかはよくわからない。目立ちすぎて煙たく思われたかもしれない。
 
 53歳から新潟で8年、東京で6年、14年間の社長時代、NO2には非常に恵まれた。技術系の私を補うように、営業系、管理系で、私にないものを目立たないように補ってくれた。逆の立場だったら、自分はあれほど上手くは出来ない、失格だっただろう。
 
 67歳からの7年間、姫路の会社に勤務したが、自分の立場、ありようが難しかった。トップは2代目社長で、私は経営のプロとしてスカウトされたNO2だったが、実際には経営全般を取り仕切る実質的なトップでもあった。結局、トップとNO2を兼務し、実務も経営も幅広くこなす、スーパーマンみたいに頑張らねばならず、いささか疲れた。

 しかし、休日には京都、神戸、瀬戸内海等、各地に出かけて74歳まで初めての関西生活を堪能することが出来たので、満足している。
  
 
(8)仮に運命が人間活動の半分を、思いのままに裁定しえたとしても、少なくともあと半分か、半分近くは、運命が我々の支配にまかせてくれているとみるのが本当だ。・・・・人間はもって生まれた性質に傾いて、そこから離れられない・・・ある道を進んで繁栄を味わった人は、どうしてもその道から離れる気になれない・・・・
  
 マキャヴェリの時代はルネサンス以前のキリスト教世界、人間が運命に関与する、運命を変えるとは言い難かっただろうから、ここでは半分程度と控えめに言っているのではないか。
 
 リーマンショックやコロナ禍など企業環境が激変する大事件は、いつか必ず起こるものだし、それほどではなくても、常に大小様々な変化が企業に押し寄せ、企業はいつも波に晒されている。人生と同じだ。以前にも出てきたが、「晴れの日に嵐のくることなど考えもしないのは、人間共通の欠点」だが、それでは遅れをとってしまう。経営者は運命に身を任せてはならず、運命を先取りせねばならない。
 
 トップが成功体験に固執するが故に大失敗をした企業は枚挙にいとまがない。シャープは液晶に固執し、東芝は原発に固執して大損害を生じ、会社そのものの解体、売却に陥ってしまった。昨今話題のビッグモーターも、破綻に向かって一目散ではなかろうか。大企業でなくても、一代で起こした企業の社長が、環境が変わった時に最初の成功体験から抜け出せず、破綻するのは嫌というほど見て来た。運命と言えばそれまでだが、本当は人災ではないかとも思う。
 
  私は、企業の発展に必要な要素は大雑把に言うと、1.経営者、2.社員、3.時の運、の三つだと思う。経営者が賢明な判断を下し、その意図を社員が理解して誠実に実行し、それがその時の経済環境に合致していれば、企業は発展する。三つの要素が一つでも欠けると、その企業は消滅する。勿論この三つの要素は互いに影響しあっているから、単純ではないのだが。
 

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