「乳白色の肌」
引続き、文芸春秋8月号の特集「昭和100年の100人」から、仏・日で著名な画家「藤田嗣治」について、映画監督の小栗康平さんが寄稿している。
冒頭の紹介文は・・・・日仏で活躍した画家・藤田嗣治(1886~1968)。映画「FOUJITA」を手掛けた小栗康平監督が、パリを魅了したフジタの「栄光と悲惨」を綴った。・・・・
だが、ここでは、文芸春秋に拘らずに藤田嗣治を記述してみます。
フジタは明治19年(1886年)に東京で生まれ、26歳でフランスに渡ります。当初は暗中模索、苦労しましたが、1920年代の初頭、エコール・ド・パリの寵児としてもてはやされ、それ以降、日・仏で、活躍した。昭和43年(1968年)、フランスで亡くなっています。81歳でした。
下の図が、同時期に活躍した著名な画家の年代を並べた一覧です。
(中村隆夫「絵画の向こう側」より抜粋)
一覧の一番上がフジタと交友のあったピカソで、フジタとほぼダブっている。下の方に同時期の日本の画家の名前があるが、短命が多い。佐伯祐三は30歳、関根正二に至っては20歳でこの世を去っている。関根は我最大の推し画家だが、せめてあと10年生きていてくれたら、と思うが、短命だったが故の作品だったとも思える。
フジタの一生を語るときりがないのですが、簡単な紹介がポーラ美術館のHPに要領よくまとめられているので、以下、転記します・・・・
レオナード・藤田(藤田嗣治)
1886年(明治19)、東京 ― 1968年(昭和43)、チューリヒ
1886年(明治19)、現在の東京都新宿区新小川町の陸軍軍医の家に生まれたフジタは、父の上司だった森鷗外の勧めもあり東京美術学校西洋画科に入学。当時主流であった明るい外光派風の洋画にあきたらず、1913年、26歳の時にフランスにわたります。
パリのモンパルナスに住んだフジタは、ピカソやヴァン・ドンゲン、モディリアーニらエコール・ド・パリの画家たちと交流しました。彼らに刺激され、独自のスタイルを追究するなかで、日本や東洋の絵画の支持体である紙や絹の優美な質感を、油絵で再現しようと思いつきます。手製のなめらかなカンヴァスの上に、面相筆と墨で細い輪郭線を引き、繊細な陰影を施した裸婦像は、「乳白色の肌」と呼ばれて絶賛されました。1919年にはサロン・ドートンヌに出品した6点の油絵がすべて入選し、ただちに会員に推挙されるなど、フジタの作品はパリで大人気となりました。
1929年、凱旋帰国展のため16年ぶりに一時帰国。1933年以降は日本を活動の拠点とします。日中戦争がはじまると、祖国への貢献を願い大画面の戦争画の制作に没頭しますが、戦後は画壇から戦争協力者として批判を浴び、その責任をとる形で日本を離れます。
再びパリに暮らし始め、日本には戻らないと決めたフジタは、1955年にフランス国籍を取得。1959年、72歳の時にランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、レオナールという洗礼名を与えられます。最晩年には、フランスに感謝を示したいと礼拝堂「シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(通称シャペル・フジタ)」の建設を志し、完成から2年後に没しました。
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最初にパリで持てはやされたころ、乱痴気騒ぎを繰り返し、「本当の孤独は人間を駄目にする」とのこと。散髪に行くお金のなかった貧乏時代を忘れないように、おかっぱ頭にしていたそうです。下がその頃の自画像です。
次の絵は、フジタが戦前、日本に帰国して書かれた「アッツ島玉砕」です。
私には、この絵が日本軍を鼓舞しているようには思えず、逆に戦争の無謀さ、悲惨さを述べているようにしか思えません。しかしながら、戦争に尽力
した戦争画家と中傷されて、日本をはなれます。
5年後に、ニューヨークで下の絵を描いています。
この絵について、中村隆夫「絵画の向こう側」によれば・・・
藤田はニューヨークで、パリのカフェの風景を連作した「乳白色の肌」や細い輪郭線には、パリの時代の画風がうかがえる。早くパリへ戻りたいという思いの現れであっただろう。
話は一転するが、下の絵が、フジタと同時代に生きた、私の最大の推し画家、関根正二の「子供」だ。
改めて、関根は日本人、フジタはフランス人だと思う。