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芥川賞作品「サンショウウオの四十九日」

 今年の芥川賞二作品は、珍しく(?)違和感なく読める。
 
 文芸春秋9月号に芥川賞の受賞作二作の全文が掲載されている。毎年読んではいるのだが、何しろ純文学と言われる範疇、私には理解し難い物語ばかりで、全文を読むには些かの忍耐力を試される。しかし、今年の二作はいずれも読み易い。
 
 一作目は朝比奈秋さんの「サンショウウオの四十九日」。
 朝比奈氏は2021年に小説家としてデビューしているが、消化器系の医師であり、今も非常勤の医師をしながら、小説を書いている。
 
 この作品は一つの体に同居している杏と瞬という「統合双生児」の姉妹が主人公で、その姉妹と家族の関係の日常が描かれています。二人は別々の頭脳を有し、それぞれの独立した意識をもち、顔も左右に分かれて、半ずつが結合して一つになっている。手も足も片方ずつ別の脳に支配されるが、内臓の主要な器官は全て共有する。戸籍上は別の人間として認められている。
 
 一般的に結合双生児とは、体が結合している双生児のことで、(明確ではないが)出生10万に対し一組程度とのデータがある。ベトナムのベトちゃんドクちゃんは米軍の枯葉剤との関連を示唆されているが、明確ではない。知られている例は全て体の一部が結合しているが、この小説のように、肉体の全てを共有している例があるかどうかは分からない。しかし、あり得ないことでもなさそうだ。
 
 朝比奈氏はインタビューで、以下の如く述べている。
当初、杏と瞬は19歳の設定で、二人が肉体や内臓を共有する感覚をメインに書かれていました。ですから、一つの体に宿る二つの意識を哲学的、宗教的には書いていませんでした。・・・・(注:その後、編集者からの指摘で、)肉体を共有している苦しみだけじゃないはずや、もっとどうしようもない苦しみがあるに違いない、と気づいたら、バーッとアイデアが思い浮かんで、小説が大きく様変わりしました。(注:二人は29歳の設定)
 
 物語の最後のほうで、風邪で喉の痛い瞬が意識朦朧とする自分を見て自分は死んだのだと思う。以下、そのあたりを抜粋する・・・・
 遠くから呼び掛けるようなその音は意識を集中すると次第に声となり、はっきりと聞こえてきた。
 ・・・死は主観的に体験する事のできない客観的な事実である・・・死に往く過程やその苦しみを体験できても、死そのものを体験する事は出来ない・・・あなたたちは死ぬことはできず、死んだ自分の体を見ることしかできない・・・
 因果な体で育ったから、血や肉も、心も思考も自分でないことはとっくに知っている。
 ・・・あなたがたが真に恐れているのは意識の死である・・・肉体の死は意識の死とは何の関係もない・・・むしろ、意識の死は生きながらにして起こる・・・意識の死を恐れているのは、あなたではなく意識自体である・・・生と死は意識が自らの崩壊を防ぐために生み出した最大の誤謬である・・・
 
 私は意識とは、脳が作り出しているものであり、脳は肉体の一部だから、肉体の死はすなわち意識の死でもある、と思っているが、この物語では意識と肉体を別に分けている。この物語のような結合双生児で片方の死とは何か、死と呼べるのか、意識と肉体は別に考えるのか、確かに改めて考える余地はありそうだ。

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