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昭和の100人「岡本太郎」一大人の絵はやましい一
続けて文芸春秋新年特大号の特集「昭和100年の100人」から岡本太郎(1911~1996)を取り上げます。
例によって、記事冒頭の紹介は・・・・
昭和45(1970)年の大阪万博の象徴「太陽の塔」や「芸術は爆発だ」の名言で親しまれた芸術家・岡本太郎。交流があった片岡鶴太郎氏は、書や絵画などを始めて理解してから岡本の苦悩を語る。
以下、主としてウィキペディア等を参照して、彼の生涯を簡単に振り返ってみます。
太郎は、漫画家の岡本一平と歌人で小説家の岡本かの子との間に長男として生まれた。父・一平は"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博した。母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 お嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平の公認で自宅に住まわせていた。
芸術家の家庭に育ち、絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。画家になることに迷いながらも、東京美術学校へ進学した。
一平がロンドン軍縮会議の取材に行くことになり、1929年に一家で渡欧し、太郎は以降10年間パリで過ごした。1932年、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は19394に岡本の帰国を待たずに死去したため、これが今生の別れとなった。
同年、芸術への迷いが続いていたある日、ピカソの作品《水差しと果物鉢》を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ』(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。パリ時代の彼のみずみずしい青春の記録の作品は、戦火で殆ど焼失してしまったが、戦後復元された「空間」「傷ましき腕」などに片りんを見ることが出来る。
1940年ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本に帰国する。1942年兵役招集され中国戦線へ出征、1945年終戦で日本に帰国。世田谷にアトリエを構えて再び制作に励む。1947年、新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。
1970年に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、テーマ展示のプロデューサー就任を承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、出来上がったのが『太陽の塔』であった。1975年に永久保存が決定され、現在も大阪万博のシンボルとして愛されている。
1970年代以降には、日本テレビ「鶴太郎のテレビもんじゃ」などにレギュラー出演。冒頭で「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」などと叫びながら現れる演出が人気を博すと、これらのフレーズは流行語にもなった。また番組内で出演した子供たちの絵を批評、眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。さらに、この番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。
1996年、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸器不全で死去した(満84歳没)。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。
彼の生涯は紆余曲折、多々あり、とてもこの程度で語ったとは言えないのですが、表面だけでなく、少し内側を知ろうと、アマゾンポチで岡本太郎「芸術と青春」を購入して一読した。
本の冒頭、見開きで「傷ましき腕」が出てくる。1936年パリ時代の作品を1949年に再制作したものだが、まさにこれぞ岡本太郎の青春、力強い腕がすべてを打ち破る強い意思が伺える。
本の中で、芸術とは何かについて、結論として以下の如く述べている。
・・・・私は近頃「対極主義」という新しい芸術の方法論を提起している。芸術家の純粋な孤独は、その反対極としての現実と対決するために、やはりそれを強力に把握しなければならない。二者を矛盾する両極として立てるのである。(対極の定め方は、合理・不合理、古典主義・浪漫主義、動・清、吸引・反撥、愛・憎、遠心・求心等、芸術の技術に即してさまざまである。)この二つの極を、妥協させたり、混合したりするものではない。矛盾を逆にひき裂くことによって相互を強調させ、その間に起る激しい緊張感に芸術精神の場があるという考えである。芸術家はこの対立の場で、烈しく一方の極に己を置くのであるが、その烈しさの故に、反対極からの制約は強大である。ただこれは太陽を求める幼児の無自覚な絶望ではなく、極めて意志的に、己の位置を決定するのだ。それによってのみ純粋は貫かれ、芸術は可能となる。この決意こそ、私の芸術の信条なのである。・・・
いったい、人間が云々する生活とはなんであろうか、おそらく人間自身、それを識ったためしはないのではないか。まして、生活の信条などという言葉はナンセンスである。そんなものがあったら、差し当たり、猫にでも喰わしてしまえばよかろう。・・・・
本では、この芸術論に至るまでの、もろもろが述べられている。特にパリ時代の経験と、母かの子に感じたこと、理解したことが、大きいようだが、正直私にはよく理解できなかった。
文藝春秋に戻って、片岡鶴太郎さんは、以下の言葉で結んでいる・・・・
万博で先生が構想した「太陽の塔」は、丹下健三があらかじめ設計していた大屋根の高さをはるかに超えていました。反対も多かったはずですが、屋根に当初なかった穴を開ける形に落ち着き、しかもその塔だけが後世に残った。先生は、美の革命を起こした人だったと思います。
ヘッダーは、岡本太郎著「芸術と青春」から「傷ましき腕」