社会的な力の分類、PowerとForce
この記事は個人的な空想です。
専門的な信憑性に欠ける内容となっておりますので、ご利用の際は自己責任でお願いします。
特に、鬱の治療については医師の判断に従ってください。
1. PowerとForce
人間が社会において生きていくためにPowerが重要なことは明白だ。能力や活動力、体力といった人的資源が必要だということだ。
一方で、人間は社会生活において様々なしがらみに囚われている。束縛、制限を受けている。これはForce的なものだろう。
2. PowerとForceの関係性
では、PowerとForceは互いに全く異なった独立的なものなのだろうか。
私の直感的な予想によれば、そうではない。
PowerとForceは関係し合っているように思える。
前項を眺めていると、Powerは能動的でForceは受動的という、視点の違いという問題にも思えてくる。
能動的に行使するものがPowerで、それを行使されるような受動的な立場からすればForceなのかもしれない。
このようなニュアンスに基づいて仮説を示す。
とは言え、物理学における作用-反作用のように、作用と同時に生じるものではないだろう。
では、どのような関係なのか。私が考える仕組みは次のようなものだ。
このような流れに従って、「①Powerの行使」が「⑤Forceを受ける」に繋がると考える。
どこか、社会における通貨を介した相互作用にも似ているような気がする。
3. Forceの分類、最小限界Force
人間は社会生活において様々な制限つまりForceを受けている。
ここで、そのForceは、基本的なForceと付加的なForceの二種類に分けられると考える。
基本的Forceは、場合に依存しないため、他者に依存しない。
だから、基本的Forceは自分だけに依存するような内発的なものだと考えられる。
基本的Forceとは、内発的な自分自身に対する要求のようなものだ。
具体的には、遺伝といった先天的な資質からの声のようなものだったり、あるいは後天的な経験に基づいた直観による声だったりするのかもしれない。
ただし、このForceの分類は近似的なものだと思われる。
実際には、基本的Forceと付加的Forceは互いに絡まり合っている。
例えば、上記では自分と他者を明確に分けたが、実際にはそれらは明確に分けられるような関係ではないのかもしれない。
脳は自分を他者の一人として認識しているかもしれないし、反対に他者の中に自分が在るかもしれない、といったようなイメージだ。
ともかく私は、この基本的Forceが、生きてゆくための最も重要なものの一つであるように思える。
4. 鬱の機能
生物学的には、鬱とは、経験的に不可能性が高い事柄への期待やそれに伴う行動を抑止するという、エネルギー節約のための機能だとされている。
具体的には、鬱は行動抑制であり、社会的な孤立状態を誘発する。
すると、前述の付加的Forceはゼロに近くなるため、殆ど基本的Forceのみが問題となってくる。
このような状態から、鬱は、社会的なしがらみや制限をリセットすることにより、基本的Forceという内発的な要求のみに集中的に着目するという、生存のための方向付けの簡素化と再構成を行う機会を提供しようとしているようにも解釈できる。
だとすれば、鬱は生存に対して、自分を破滅へ導く死的な出来事ではなく回復へ導く生的な出来事だ。
鬱が回復機能だとすれば、鬱はたしかに初期段階において社会性の遮断を行うが、回復の暁には社会性もまた回復に向かうはずだ。
このような考えから、私は鬱の回復期には社会性の回復が見られると予想する。
そして、この回復を担う主要な柱こそが、基本的Forceだと考える。
よって、鬱においては、社会性の遮断や無視を行い孤立状態を作った上で、自分の内発的な感性に従って行動することによって自然と社会性の回復に繋がるのではないか、と考える。
以上です。
最後まで読んでくれてありがとうございました!
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