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介護離職した私と認知症の伯母の話

はじめに

私は、新卒より20年弱勤めていた会社を、認知症の伯母の介護に専念するために退職しました。認知症にはいくつかの種類に分かれますが、伯母は「血管性認知症」と診断されました。

これから大きな社会問題になると言われている「介護離職」と「認知症介護」について、私の体験談がどなたかのお役に立てば幸いです。



血管性認知症の特徴

認知症と聞いて、多くの方が思い浮かべるのは「アルツハイマー型認知症」です。認知症の約7割は「アルツハイマー型認知症」に分類され、私の伯母が診断された「血管性認知症」は認知症全体の2割程度のようです。

認知症のことを調べると、アルツハイマー型のことばかりヒットします。
なかなか、血管性認知症の情報を得るは難しかったです。

厚生労働省老健局「認知症施策の総合的な推進について」の情報を加工

「アルツハイマー型認知症」は比較的緩やかなスピードで、認知機能が衰えていきます。

NHK アルツハイマー型以外の認知症にご注意を! 「血管性認知症」の情報を加工

一方で、「血管性認知症」は、脳卒中を繰り返すことで、身体機能の衰えと認知機能の衰えが一気に低下します。

NHK アルツハイマー型以外の認知症にご注意を! 「血管性認知症」の情報を加工

血管性認知症は、アルツハイマー型認知症も高い確率で合併するようで、日常的に認知機能が衰えていきながら、脳卒中を発症する度に、階段状に一気に機能が低下することになります。

私は、階段状に一気に機能が低下する、という意味がよく理解できませんでしたが、しばらくして、まさに図の通りの状態を体感しました。


周囲から愛される健康に無頓着な伯母

私が物心ついた時には、伯母は大量にお酒を飲み、大量に煙草を吸う人でした。飲酒・喫煙・賭け事といった、大人の嗜みは、すべて伯母に教えてもらいました。両親が教えてくれないことを教えてくれて、気前が良く、多くの友人に囲まれ、楽しそうに生きる伯母のことが、私は好きでした。

伯母は、早くに旦那さんを亡くし、こどもはいません。
いつか、伯母の介護は私がするんだろうな、と漠然と思っていました。

伯母は、週末や連休になると、旦那さんが定年退職後に移住予定で購入した小さな別荘に行き、ガーデニングを楽しんでいました。別荘に職場の仲間や、学生時代の友人、趣味で知り合った仲間や、私たち家族を招き、楽しく過ごす機会を提供してくれました。

伯母は、60歳で定年退職するまで、事務職として働いていました。褒められるような食生活はしておらず、ちゃんとした食事は平日の昼ごはんだけ。休日や平日の夜は大量のお酒と、ほんの少しの塩辛いおつまみのみ。

伯母の体は酒でできているはずだと、ずっと思っていました。


ガリガリに痩せ細る伯母

定年退職をしてから10年ほど、伯母は、海外旅行をしたりして楽しそうに過ごしていました。その後、コロナ禍のステイホーム期間に突入し、徐々に外出や人付き合いが億劫になります。

コロナ禍に、私が伯母の家を訪ねると、伯母はガリガリに痩せていました。身長160cm弱、体重35kg程度。

太ももの太さは、私の腕と同じくらいです。

「即身仏にでもなろうとしてるの?」と聞くと、
「失礼ね!」と笑いながら怒られました。

栄養失調を心配し、食事を勧めると
「食べろと言われるのが、すごくつらい。食べたいと思えないの。」
と言われました。

伯母は、70歳の誕生日にプレゼントしたパソコンを使いこなし、ネット注文でお酒と食材を調達し、ネット注文ができない煙草を買いに近くのローソンに行くという、ほぼ外出しない生活をしていました。

自宅から伯母の家まで行くには、2時間弱かかります。頻繁に様子を見に行くことは難しく、近くに伯母を呼び寄せるか、両親とも、伯母とも話をしましたが、伯母は、亡くなった旦那さんと暮らした家を離れる気がなさそうでした。

幸い、伯母の家の近くには、伯母を心配して、家から連れ出してくれる友人が数名います。居住地を変えて、友人に会いづらくなることは、本人の送りたい生活とは異なります。幸い、頭はしっかりしていて、ひとりで何でもできる人なので、まだ大丈夫だろう、と両親と私で結論づけました。

そう結論づけた数年後、伯母は血管性認知症になります。


認知症を疑ってから要介護5になるまでは、半年ほどでした

家族が伯母の認知症を疑い、自治体に相談を入れてから、「要介護5」になるまでは、あっという間でした。

6月・・・・ボケ始める伯母
7月・・・・認知症確定。服薬ができず、医師に呆れられる伯母
8月・・・・”要介護1”確定。福祉サービス開始日に徘徊も開始
9月・・・・空室がなく待機施設に入居。回復の兆し見えるも…
10月・・・”要介護”3確定。その後、脳梗塞で入院、失明する
11月・・・退院後、本命施設に入居。食事が全介助になる
12月・・・脳梗塞で再入院、後遺症残り"要介護5”確定。

本当に色々なことがありました。月ごとにお話します。


6月・・・・ボケ始める伯母

伯母の認知機能が低下し始めた頃、私は毎週のように全国出張をする、ハードワーカーでした。新年度に新設された部署の配属になり、体調管理と残業時間の上限時間を気にしながら働く、典型的なサラリーマンで、日々ヘトヘト、自分の生活で精一杯でした。

そんなある日、母からLINEが届きます。
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母:「元気ですか?お姉ちゃんが大変なんです。完全に認知症です。」
私:「元気、昨日は長野で、今日は名古屋です。何があったの?」
母:「信じられないくらいに弱っていて、自分でも少し変だと自覚しているの」
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すぐに、母と電話で話をして、現状を把握しました。

● 伯母のかかりつけ医へ相談すると、伯母がずっと健康診断の結果を聞きに来なかったことを知る。
● 健康診断の結果は、血液検査の数値が悪く、大きな病院の循環器内科の受診を勧められ、紹介状をもらい、診察を予約した。
● かかりつけ医より、認知症の確定診断をすべく、脳のMRI撮影と認知症検査をして頂ける検査機関を紹介、予約をしてもらった。
● それ以外に、両親が独自で、大きな病院の物忘れ外来の診察を予約した。
● 自治体の福祉課へ相談し、介護認定調査とケアマネジャーの申請をした。
● 伯母は、不安なことがあると母に頼り、電話で話すと落ち着き、自宅で過ごしている。

初期対応は完璧でした。
「あなたに迷惑をかけたくないから、お姉さんの面倒はちゃんと見るから心配せずに、しっかり働きなさい」
と両親が言ってくれたので、感謝をしつつ、業務調整ができる時は両親のフォローをすると伝えました。

心配になり、すぐに伯母へLINEをしました。
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私:元気ないらしいじゃないですか。心配です。
(2日後に返信が来ました)
伯母:げんきです。
伯母:むつごろう
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む、、むつごろう…?

更に心配になり、伯母の自宅に行ったり、電話をしたりしました。
会話の途中で話が飛ぶ違和感を感じました。

数年前、家族が立て続けに難しい病気になり、私は介護休業を経験したことがあります。

あの時より大変なことになりそうだな…と思いました。
私の第六感は、ほどなくして的中します。

伯母は70代前半。両親も70代前半。いわゆる「老々介護」。
さまざまな事が重なり、両親だけで伯母の介護をできていた期間は、この連絡を受けてから1カ月程度であったと思います。

あまりにも、伯母の認知機能の低下する速度が速すぎました。


7月・・・・認知症確定。服薬ができず、医師に呆れられる伯母

こちらが望むスピード感では、治療や福祉サービスなどが受けられません。

どれだけ待てば、一体、誰が何を助けてくれるのだろう…?
と思うモヤモヤした7月でした。

循環器内科、認知症、介護認定調査、ケアマネジャーについて、お話します。

◎循環器内科
伯母は栄養管理も、毎日薬を飲み、血圧を測ることも難しくなっていました。色々と悪いところがありそうだと、医師からの発言があったので、母が循環器内科で、入院できないか相談しました。

「病気の原因を特定しないと入院はできません」
「2週間、血液をサラサラにする薬を飲み、血圧を測ってください」
「お酒もたばこもやめてください」
「そうしないと病気の原因を特定するためのカテーテル検査ができません」

と、医師から返答があったそうです。

そういうことができないので、病院の管理下においてほしいと、母は相談したのです…。

服薬が継続できない、血圧測定できない

次の検査ができない

病気が特定できない

医者が不機嫌になる

何も変わらない

という負のループ。双方にとって時間の無駄でした。


◎認知症
物忘れ外来と検査機関で、認知症検査を行いました。

「認知症です、今後、おひとりで生活するのは難しいでしょう」

どちらの医師からも、そのように言われました。
しかし、薬の処方はなし。

物忘れ外来の次の診察は、8月後半。
検査機関の医師は、かかりつけ医にMRI画像と今日の結果を情報共有しておくので、以降かかりつけ医と治療方針については相談してくださいと言われました。

その後、かかりつけ医に相談をして、物忘れ外来にMRI画像を共有する紹介状を頂きました。

伯母は日々悪化しています。
本格的な治療が始まらず、もどかしいです。


◎介護認定調査
6月に福祉課へ相談を入れた介護度認定調査が、ようやく入りました。
結果は1カ月くらいで分かると伝えられました。

なかなか介護サービスを受けるところまでたどり着けません。
あと1カ月は自力で頑張ってね、と言われた気分です。

介護認定調査を終えた頃から、伯母の容態は更に悪化します。

● 携帯電話の使い方が分からなくなる
● 自分がどこにいるのかが分からなくなる

という症状が目立つようになりました。
これまでは、週に2~3日様子を見に行き、行けない日はLINEや電話をすれば、落ち着いて家の中で過ごすことができていました。

しかし、LINEが未読のままであったり、電話に出てもらえないことが続き、伯母の家に行かないと、伯母と意思疎通が取りづらくなってきました。

更に、不安になると、どこかに行きたがるようになりました。
自宅にいるのに、家に帰らないと!行かないと!と言うようになり、徘徊しないか、日々心配になります。

藁をもすがる気持ちで、福祉課にいつ介護度が分かるか尋ねると、
「8月4日に介護度が電話で確認でき、書類は7日以降に郵送します」
とのこと。

自力で頑張ってね!は、8月初旬まで続くのか…と思いました。


◎ケアマネジャー
6月に相談を入れて、社会福祉法人の職員が、伯母の家を8月4日に初回訪問し、どのようなケアマネジャーが伯母に合うか検討するためのヒアリングが行われる予定でした。

相談を入れた時とは状況が異なり、そんな呑気な訪問されても困るため、社会福祉法人へ連絡をします。

「在宅介護の限界を感じており、8月4日の相談内容を変更したい」
「施設入居を前提に施設入居までのサポート内容について相談したい」
「ケアマネージャーを早急に決めてほしい」

とお伝えしました。

私は、この頃から、伯母と一緒に、伯母の資産整理を始めていきました。
意思疎通が図れて、目が見えて、文字が書けるうちに、整理すべきことを整理しておいて、大正解でした。


8月・・・・”要介護1”確定。介護サービス開始日に徘徊も開始

待ちに待った8月4日!

福祉課へ連絡し、要介護度を確認したところ、「要介護1」でした。
今で要介護1なら、この先が思いやられます…。

午後は、ケアマネジャーさんが、翌日より在宅介護支援ができるヘルパーステーションの代表の方も連れて、伯母の家に訪問してくれました。

ケアマネジャーさんは
「介護認定調査を受けた時からだいぶ進行されたのでしょう」
「おそらく、現状で、要介護3くらいだと思います」
「ひとり暮らしは難しいと思います」
「入居施設探しの時間を確保するために、ヘルパーさんに入って頂きましょう」
とおっしゃいました。

ヘルパーさんは
「ご家族が付き添った状態ですと、生活介助に入れない決まりがあります」
「伯母様の1日の生活の様子を確認し、今後の介助内容をご提案します」
「明日、日中に3回様子を確認させて頂きます」
「お疲れでしょうから、明日は私にお任せ頂き、休んでください」
とおっしゃいました。

ようやく、心強い仲間ができました!!

翌日、8月5日。実家でゆっくり過ごしておりました。
ヘルパーさんからは、伯母の家に入る度に連絡が入りました。

10:00 ヘルパーさんからの連絡
「家のチャイムを鳴らすと、すぐに家に招き入れてくれました。携帯電話がないと慌てていらっしゃったので、一緒に探しました。」

12:00 伯母からの連絡
伯母:私はどこに帰るの?タクシーに乗ればいいの?駅にいけばいいの?
母:家にいてね。ヘルパーさんが14時と夕方に行きますからね。

14:00 ヘルパーさんからの連絡
「様子を見てきたのですが、午前中よりも部屋がさらに散らかっています。500円玉をたくさん手に持たれて、駅まではいくらかかりますか?と聞かれて、今、ご自身が自宅にいるという認識がなさそうです。何度もここが自宅だとご説明しましたが、カバンなどをしきりに気にしていたので外出しそうな雰囲気がかなりあります。また夕方に様子見に行きます」

17:00 ヘルパーさんからの連絡
「伯母様が、鍵もかけずに家から出られてしまいました。周囲を探しましたが、見当たりません!!!」

介護サービス初日に、伯母は徘徊…
私と両親は、急いで伯母の家に向かい、その途中で、警察へ連絡を入れました。

19:00 警察からの連絡
「伯母様を保護しました、ご自宅にお連れします」

警察に保護され、パトカーで帰宅した伯母は、非常にご機嫌でした。

「お巡りさんがすごく優しくて、パトカーで送ってもらっちゃった!」
「どうして私の名前を知ってるのかしらね~?」

炎天下の中、徘徊した伯母が熱中症にもならず、無事に自宅へ戻れて安心しました。と同時に、笑顔でご機嫌な伯母を見て、旦那さんとの思い出が詰まった自宅での介護は、伯母のためにも諦めるべきだと思いました。

その後、ケアマネジャーさんが訪問診療医を手配くださり、夜間に訪問診療をしてくれました。

幸か不幸か、ようやく、この日から、認知症に対する投薬治療が開始されました。

ケアマネジャーさんから、本格的に入居施設を探す間、伯母を、ショートステイに預けることを勧められ、了承しました。

ショートステイ先が決まるまでの数日間、母と私が交代で、伯母の家に泊まり込みで伯母の見守りをしました。
伯母は、ご機嫌で、家の中を散らかし続けます。

ショートステイ先が決まり、伯母を預けました。

伯母は、病院に隔離されたと勘違いし、誰彼構わず、携帯電話で助けを求めました。電話をもらった人たちには、状況をご説明し、謝罪しました。

私と母が面会に行くと
「私を地獄の底に突き落としたお二人さん、一体何の用よ!」
と伯母は言い、ものすごい目つきで私たちを睨みつけました。
伯母のあんなに怖い顔を見たのは、後にも先にもあの時だけです。

よほど嫌なのでしょう…伯母のショートステイ滞在期間を最短にすべく、
親族会議と、老人ホームの見学と契約を急ぎました。

ケアマネジャーさんには、要介護度の区分変更を申請してもらい、施設紹介会社さんを紹介頂きました。

施設紹介会社さんは、丁寧に伯母や親族の話を聞いてくれて、伯母に合いそうな老人ホームの候補選定、見学予約、見学立会をしてくれました。
地獄と言われず、伯母と私たちにとって最良だと思う施設へ入居申込をしました。


9月・・・・空室がなく待機施設に入居。回復の兆し見えるも…

入居申込をした老人ホームは満室で、空室が出るまでの間、系列の老人ホームに入居し待機することになりました。待機施設は、最上級ランクの高級老人ホーム。

日々、さまざまなレクリエーションがあり、味にうるさい伯母が美味しいと完食する食事のクオリティ、気に入った庭の花は部屋に持ち帰ることができます。24時間看護師が常駐し、2:1の大変手厚い介護体制、献身的なリハビリ。控えめに言って、最高の生活環境です!

ショートステイ先で、他の方の部屋に誤って入ってしまい、泥棒呼ばわりされた伯母は、集団生活を怖がっており、家に帰りたいとごねていました。

ほぼ毎日面会に行き、伯母を怒る人はいないと宥めている間に、禁酒、禁煙、バランスの取れた食事、適度な運動という健康的な生活を送り、伯母は元気になっていきます。施設内を歩きまわり、ケアスタッフさんたちと楽しく会話をして、徐々に施設に慣れていきました。

ようやく平穏が訪れそうだと安心し始めていた時、空室が出たので、来月に転居してほしいと連絡が入ります。入居申込の際、待機施設には半年程度滞在することが多いと聞いていたので、驚きました。

8月にショートステイ、9月に待機施設、10月に本命施設。
毎月居住地が変わると、また本人が不安になるので、もう少し待機施設にいたいとお願いしましたが、契約上難しいと断られました。

まだまだ、伯母中心の生活が続きそうです…。


10月・・・”要介護3”確定。その後、脳梗塞で入院、失明する

8月に申請した要介護区分変更申請の結果、「要介護3」になりました。

この頃の伯母は、満腹中枢に異常があったのか、常に「お腹空いた」と言い続けます。食べることが辛いはずだったのに、3度の食事と提供されるおやつだけでは、お腹がいっぱいにならないとのこと…。

足りない!もっとガッツリしたものが食べたい!と毎日言うので、施設と訪問医の了承を得て、本人が希望する「かつ丼とたぬきそば」をウーバーイーツで注文しました。当日は朝からご機嫌で、介護スタッフさんに「今日はウーバーイーツが来るの!」と嬉しそうに話していたそうです。

伯母が喜ぶなら、今後も、こういう機会をつくりたいと思いました。
本人の希望通りガッツリと「かつ丼とたぬきそば」を食べた2日後、
伯母は脳梗塞を発症し、緊急搬送され、失明しました。

二度と、自分でお箸を持って、ガッツリ食べることはできなくなりました。

10月の引越先は、本命施設ではなく病院の個室でした。
点滴を抜かないように、手にはミトン、ベッドから落ちないように、拘束着を着て身体拘束をされて過ごす入院生活が3週間ほど続きました。

「脳梗塞になり後遺症で目が見えなくなった」といくら伝えても、理解できず、身体拘束された伯母は、「助けてー!」と大きな声を出し続けました。

家族が面会に行く時間とリハビリの時間は、身体拘束とミトンが取れるので、なるべく毎日面会に行き、何度も病状を説明しました。

伯母は、失明したことをそこまで気にしている様子がありませんでした。

認知症の方は、徐々に認知能力が衰えていくことを恐怖に感じ、うつになったりするケースがあるそうです。伯母は、失明する前から、怖いと考える感情が薄れていたようで、不幸中の幸いですね。と、入居施設の訪問医に言われました。


11月・・・退院後、本命施設に入居。全介助になる

いよいよ退院、本命施設に入居です。
伯母の状態が入居申込時と全く異なるため、今の伯母にとって、本命施設となり得るのか、心配でした。

老人ホームでは身体拘束ができません。
多動な伯母の見守り対策として、ベッドから降りる足元に、センサーマットが敷いてあります。センサーマットに触れると、アラームがケアスタッフに届く仕組みになっています。

伯母は入居日の夜に、そのアラームを100回以上鳴らしました。

認知症で失明状態なのに多動。
怖いもの知らずの伯母の世話は、大変です。

多動な伯母には、ケアスタッフさんが付きっきりで見守りをしていました。家族が面会に行けば、ケアスタッフさんが伯母から解放され、本来の介護体制で施設の運営ができます。

ご迷惑をおかけしているのは重々承知していたため、
老人ホームへは、面会へ行くというよりも介護のサポートをしに行く感覚で通っていました。


12月・・・脳梗塞で再入院、後遺症残り"要介護5”確定。

入居から1カ月弱で、また伯母は脳梗塞を発症し、入院します。
脳梗塞は、発症した場所により、後遺症が全く異なります。

今回の脳梗塞は脳幹部。

高い確率でこのまま亡くなる、施設に戻れず療養病院に転院する、と医師から言われましたが、伯母は強いです!

翌日からリハビリできるほどに、復活します。
しかし、後遺症は残りました。

左の手足に麻痺が残ってしまい、歩きにくくなりました。
嚥下機能が低下し、柔らかいものや、とろみのついたものしか食べられなくなりました。

そして、退院後、要介護区分変更申請を行い、「要介護5」となります。
本当にあっという間でした。


”要介護5”になってから

後遺症付きで退院してからも、多動の状態は続きます。
ケガ防止のため、部屋の中のベッドやタンスや椅子などが撤去され、伯母はマットレスが敷き詰められた部屋で生活することになります。

多動の症状を抑えるための薬の調整を2週間ごとに行い、半年かかり、ようやく症状が安定し、普通の部屋の状態に戻せました。

先日、面会に行った時、伯母が「いらっしゃい」と言ってくれました。
地獄ではなく、自分の居場所として、受け入れてくれたのでしょうか。

基本は寝たきり、手足は少し動かせます。
食事の時は、車いすに移り、全介助で毎食完食です。
排泄も全介助になりました。

こちらからの問いかけに対し、会話が数往復はできています。
伯母は、ユーモアに溢れた返答をするので、話していて楽しいです。
介護スタッフさんたちからは、伯母のことを
「面白いです」「可愛いです」「好きです」と言って頂けています。

周囲に愛される健康に無頓着な伯母という、伯母の根幹の部分は何も変わっていません。私は、今でも、伯母のことが好きです。


なぜ、伯母の介護をあなたがするの?

「そもそも、なぜ、伯母さんの介護をあなたがしなければならないの?」
とよく聞かれました。

私の好きな伯母が、伯母らしく、より良い最期を迎えるため。
と回答するのが、一番しっくりきます。

日々の生活介助は、協力くださる外部サービスがあるので、介護が、会社を辞めるほどなぜ大変なのか、理解できない方は多いと思います。

私が伯母の介護で、時間と労力をかけたことは、伯母の資産整理です。
スピード感をもって進めるにあたり、一番若い私が、適任者でした。

私は、伯母と保有資産を確認し、収入と支出を整理し、今後の伯母の生活に不要だと思うものを優先順位をつけて、整理しました。

不動産売買や、相続などもあったため、少しでも遅れれば、色々と積み残しが生じ、法定後見人制度を申請することになったと思います。

生きているのに、遺産整理をしているようで、落ち込むこともありましたが、資産整理をし、使い方のシミュレーションを重ねたことが、伯母にとって、より良い生活に繋がっています。


なぜ、介護離職をしたのか

伯母が徘徊した頃から、介護と仕事のバランスに悩みました。
そして、失明した頃から「介護離職」を意識するようになりました。

「介護に関わる時間を最小限にして、現状維持して働く」
という選択肢はできません。

「部署異動」「休業・休職」「介護離職」の選択肢が頭に浮かび、
私は、自分が一番ポジティブになる選択をしたい考えました。

「部署異動」
介護を優先しやすい職場環境で、安定収入があるというメリットがあります。しかし、新たな人間関係を構築する気遣いや、新しい職場の業務内容を覚える労力に対する不安と、新しい部署の同僚に迷惑をかける罪悪感がきっと生まれると思いました。

「休業・休職」
介護に専念できるというメリットがあります。介護休業は制度上、伯母は対象外です。当時、人事に特例を認めて頂く相談をする時間や根気がありませんでした。また、以前介護休業を取得した経験から、職場への罪悪感や、復職への不安がありました。

「介護離職」
罪悪感を感じることなく、介護に専念できるというメリットがあります。貯金を切り崩しながらの生活ですが、介護が落ち着いたら、既成概念にとらわれず、自分の価値観を見つめ直し、ワークライフバランスを考えることができると思いました。

伯母の介護を通じて、自身の中で死生観や、タイムパフォーマンスについて考え方が大きく変わりました。伯母に関わることを精一杯やりながら、自分のこれからの人生のぶれない軸を考えることができる「介護離職」を選択することが、私にとって、健全な生き方だと思いました。後悔はありません。


最後に

自分の体験談をまとめる良い機会をくださった創作大賞2024に感謝します!

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