【新潮文庫の100冊濫読②】『ぼくは勉強ができない』高校生のときに共感して、大人になっても共感した

主人公の時田秀美はとにかくかっこいい男の子だ。17歳で、年上の女のセックスフレンドがいる。時田くんの価値観は尖っているけど柔らかで、面白い。彼の物言いはいつもウィットに富んでいて、初めて読んだ当時はこんな男の子に出会いたいものだと恋焦がれていた。

「おじいちゃん、うちって貧乏だね」
「ふん、貧乏ごっこをしているだけだ」
「それを一生続けるのを貧乏っていうんだぜ」

「ぼくは勉強ができない」

最初の方に出てくる、秀美とおじいちゃんのこのやりとり。あまりにも素敵すぎてクラクラしてしまった。

仲の良い教師によく哲学やら倫理やらの本を勧められて読んでいる彼は
「いい顔をしてないやつの書くものはどうも信用がならないのだ。(中略)しかし、いい顔をした人物の書く文章はたいていおもしろい。」と思っている。とにかく彼は「いい顔をしたやつ」「女にモテるやつ」を信頼しているようだったし、彼もそのような人間だった。この小説は短編集のような形式になっていて、時田秀美が一章につきいろいろな人と関わっていて、自分の考えを強固にしたりあるいは新しいことを学んでいったりする。時田秀美は一人一人の人間に対してすごくたくさんの感想を抱いて、そしてそこからいろいろなことに思索を巡らす人で、そんなところが時田秀美の魅力だった。第一章に登場するのは脇山で、時田秀美にとって「女にモテること」が重要であるというのが伝わってくる話だった。脇山はとても頭の良い子生徒で、しかしなぜか時田にめちゃくちゃ突っかかってくる。勉強ができないくせにヘラヘラした時田が気に食わなかったのだろう。時田はそんな脇山に対して、勉強ができることは賞賛しつつ、「でもお前女にモテないだろ」と言い放つ。彼にとってそれはどうも図星だったようで、それ以降なんやかんやあり、彼は最終的に恋に悩むようになるのだが、その彼を時田は前よりもいい顔をしていると表現している。

第二章では植草が登場する。植草はよく難しいこと考えていて、虚無だとか哲学的な何やらを言って日々悩んでいる。それを見た時田くんは彼のことを「深刻さをもてあそんでる」と表現する。この「深刻さをもてあそんでる」という表現は言い得て妙だと思った。こういう小難しいことで頭を悩ませることができるとき、確かに人はどこも身体が痛くないし、生きていけているのだ。
 時田は、心の痛みよりも体の痛みのほうがもっと頑固だ、と思っている。そのことを知り尽くした上で思考に身を任せられる人間がいたら尊敬してしまうだろうと。
 そんなおり、虚無がどうこうとかいって高尚なことに頭を悩ませていた植草が骨を折った。痛がる植草の横で「好きなもののこと考えて気を紛らわせろよ、何だっけお前の好きな作家。酒の名前とおんなじやつ」とか「空虚がなんとかって、おまえ言ってたよなあ。今もそう感じるか」と問いかける。
もちろん植草はそれどころではなく、痛みのことしか考えられない。そしてやはり痛みは高尚な悩みを凌駕するのだ、と時田は思うのだった。

 それ以降の章も時田は様々な人と関わっていく。自分に向けられる勝手な決めつけの眼差しに腹が立ったり、自分の自意識を恥ずかしく思ったり、辛いことがあって普段の自分なら取らない行動をとってしまったりしながら過ごしていく。そんな時田の姿はまさに高校生の頃の自分の姿と重なった。高校生の頃というのは私にとって、何か人と関わりを持つたびにいろいろなことを考えて、最終的に自分の中で何やら大きな結論や強固な思想を形成していく時期だった。時田が考えていることと同じことを考えたこともあったし、違うことを考えたこともあったけれど、時田のように色々なことで悩んでいたのは確かだった。

 そして、高校生の私ではなく、まさに「今の私」がひどく胸を打たれたシーンがあり、私はそのことにとても驚いた。まさか10代の頃に共感しながら読んでいた本に、24歳の今ここまで揺さぶられることがあるなんて、と。私はこのシーンはすっかり忘れていた。恐らく当時はそこまで記憶に残らなかったのだろう。

それは8つ目の「ぼくは勉強ができる」というタイトルの話だ。時田は、周りの環境に不満が無いにもかかわらずなぜか「窮屈な心地」を抱いている。言葉にできない居心地の悪さ、それは誰のせいでもなく自分のせいで居心地が悪くなっているのだが、どうしたらいいのか分からず困っていると。そんな時田を周りの大人は「体に合わない服を着せられた子供」だと表現している。服がブカブカだから、自分が服に合わせて大きくなればいいし、そうする必要がある、という。
この「体に合わない服を着せられた子供」という表現が今の自分に恐ろしくしっくりきてしまい、ハッとした。社会人になり、周りの環境が変わって、なんとなく漠然と「身の振り方を、考えなくては」と思っていて、自分の置かれた環境と自分自身がうまくはまっていないような居心地の悪さを覚えていた。それはまさに「服のサイズが合わない」という表現がぴったりだった。私には服のサイズに合わせて体を大きくするか、そもそも服のサイズを変えてしまうか、そういう選択肢がある。ただできるだけ服のサイズは変えたく無い、いま私に与えられているのはこの服なのだから......。

一度読んだことのある本だったから、もう読むことはないと思っていた。けれど今まさにこのタイミングで「ぼくは勉強ができない」を読み返したことをとても良かったと思う。



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