【新潮文庫の100冊濫読③】「盲目的な恋と友情」それは恋の甘美さと疑念を同時にもたらす
友人に「きっと好きだと思う」と勧められたこの本は、暗く沈んでいくような恋心を冒頭からはっきりと提示してきた。
この一文だけで、主人公にとって茂実星近という人間がどれだけ他の人とは違うものをもたらしたのかがありありとわかる。
ここから始まっていくのは、主人公が茂実とどのような愚かで美しい日々を送ったのか、その詳細な記述だ。私は彼女の恋の軌跡を辿っていくことを楽しみにページをめくる。ページをめくるごとに、彼女の生活は茂実との逢瀬一色にそまっていく。「留利絵や美波たちと好きなものの話をするときは、本当に楽しかったのに、彼から電話があると、出てしまう。それまでの彼女たちとの楽しみやおしゃべりは、彼との時間を繫ぐための前座だという気さえした。」という文章はまさにそれを表していて、けれど、「好きな人と話す以外の友人とのおしゃべりが前座になってしまう」ような気持ちは分からないわけではなかった。以前よく聴いていたthe pillowsの歌詞で「君といるのが好きで あとはほとんど嫌いで」という一節があるのだけれど、それと少し似ているなと思った。盲目的なまでの恋は、本当に周りの世界を味気のないものにしてしまう。
物語の前半は全て、周りが見えなくなるほどの恋をしている主人公が一人称視点で語られていて、主人公のみっともなさにかつての自分を重ね合わせて顔を赤らめる人もいれば(おそらく一度はこういう恋をした記憶がある人は多いと思う)、見ていられなさで顔を顰める人もいると思う。
しかし、この小説の真髄は物語の後半部分の語り手が変わるパートにこそあると私は思う。後半からは主人公の蘭花をそばで見守ってきた留利絵の視点から物語が展開される。恋に溺れる人間を第三者視点から眺める、という面白さもあるし、留利絵の友情の価値観にはとても頷ける部分が多い。
「友情より恋の方が大事」と宣言できる人はなかなかいないので、実際に人間にとって恋と友情のどちらが大切なのかは分からないのだけれど、少なくとも人との会話で友情を話題にすることは、確かにない。なぜ、友情は恋よりも語られないのか。そんな疑問を提示されて私は戸惑った。
人は恋に盲目的になるのに友情には盲目的にはならない。しかし、留利絵はまさに「友情に盲目的になった」のではないかと私は思う。留利絵からの視点で語られるのは恋の話ではないのに、蘭花に対する何か巨大な感情が読み取れて、それはとても狂気的だ。
恋に生きる蘭花と、友情に生きる留利絵は、似ているけれど気持ちが交わらない。留利絵が蘭花に抱いているような強烈な友情を蘭花は留利絵に感じていない。その「気持ちの交わらなさ」が最後の展開に繋がってしまったのではないかなと思った。