【新潮文庫の100冊濫読①】『西の魔女が死んだ』魔法を使わない魔女のおばあちゃんについて

※ネタバレを含みます


この本を初めて読んだのは小学校低学年のとき。当時の私はハリーポッターをきっかけにファンタジーの沼にハマっていて、『西の魔女が死んだ』もファンタジー小説なのだと思って読み込んだ。当時の私は一度も魔法が出てこないことにぶすくれた。

そのあともう少し年齢が上がって、中学生の時にもう一度読んだ。なぜそう思ったのかはあまり覚えていないのだけれど、小説全体を覆う独特の柔らかな雰囲気がとても好きで、読んだ後はとても柔らかな気持ちになっていた。おばあちゃんが口にする「アイ ノウ」を私も真似てみたくなった。

多分そこからもう一回くらい適当に斜め読みをしたけれど、精読はしていなかった。大人になった今、読書感想文を書く気持ちでもう一度この本を読んでみよう思った。


私が『西の魔女が死んだ』を読んで感じたのは主人公「まい」の思春期っぷりへの愛おしさと、魔女である「おばあちゃん」の魅力だった。そして、中学生だった頃の私がなぜこの本を好ましく思ったのか、改めて読んでみてその理由がはっきりとわかった。

思春期な主人公が愛おしい!


まず、主人公である「まい」の心情描写や人となりがあまりにも中学生のころの自分と重なった。中学に上がって狭苦しい人間関係で心が疲れた時のことをありありと思い出し、あぁ、だから私は中学生になってこの本を読んだ時にとても染み入って読んだのだろうと答え合わせをしたような気分だった。
私が特にまいに思春期らしさを感じた描写は二つあって、一つ目はまいが覚えたての言葉をとても積極的に使うことだった。「年端のいかない娘が...」とか、中学生には似つかわしくない少し背伸びした言葉を積極的に使う。それとは反対に、言葉を使う時にひどく慎重になることもあって、おばあちゃんの状態が危ないということを聞いた時に、「まだ生きているの?」という言葉を引っ込めて「まだ話せるの?」と言ったりもする。その様子がいかにも文系科目を好む中学生然としていて(実際作中でもまいは国語が好きなことが示唆されている)、そこにとても親近感を抱いた。あの頃は、覚えたての言葉をやたら使いたがって少し間違えたりハマったりして、自分に合う言葉を探る時期だった。
二つ目は、まいが身内に対して素直になりきれないところ。おばあちゃんに「何してるの?」と尋ねると、まいのためのエプロンを縫っている、とかえってきて、まいは反射的に「ふーん」といってしまう。そのあとじんと嬉しさが広がってきて、「おばあちゃん大好き」とまいは「いつものように早口で」伝えるのだけど、そこもとても良かった。中学生のときに、身内に対して真っ直ぐに愛情や優しさを表現することは本当にとても恥ずかしい。(ただ、その恥ずかしいという気持ちを超えて愛情を伝えられるまいはとても素直で良い子だと思う。)その後に続くおばあちゃんの「アイ ノウ」はそんなまいの恥ずかしかさもきっと全て見透かしていたんだろう。そして、まいは思春期らしく......最後におばあちゃんに対して怒りというか、感情をぶつけたまま別れてしまう。まいはそのことを後悔しながらも、「許せない」という気持ちをおばあちゃんに対して抱き続けるように「頑張っ」ていた。そうしているうちに、どちらかといえば自分の方がひどい悪徳をしているような気になってきて、ただそれでも後に引けずに怒り続けるまいの姿はなんともいえず思春期らしく人間らしい。
これらのまいの姿に当時中学生の私はとても共感したのだと思う。

おばあちゃんは本当に魔女だったの?

 結局、この話は最後までおばあちゃんが魔女かどうか分からない。「西の魔女」という言葉がただ単に「英国人のおばあちゃん」程度の意味を持つのか、それともおばあちゃんは本当に魔女なのか。読者にも、おそらくまいにも判然としないまま物語は終わる。何せおばあちゃんは一度も魔法らしきものを使わないのだ。ただ、いち読者の私も最後には「おばあちゃんは魔女だけれど、好んで魔法を使わないのかもしれない」と思うようになっていた。これは恐らくまいも同じで、おばあちゃんが一度も魔法を使わなくても「おばあちゃんは魔女なのだ」と思わせるような説得力があった。彼女はいつでも自信に溢れていて、日常生活の行動全てがのても魔女らしかった。たくさんの自然に囲まれて暮らしていて、植物にとても詳しい。育てたハーブでミントティーやセージティーを作ったり、洗い立てのシーツをラベンダーの花の上に広げてシーツにラベンダーのかおりをまとわせたり、野いちごを摘んでジャムにしたり、とれたての鶏の卵をフライパンに割り入れてご飯を作ったり、ネットに入れた玉ねぎを柱にくくりつけて「ゆっくり眠れるおまじない」だと教えたり......。読み返して気がついたけれど、私は魔女の暮らしを想像するときに無意識に、この『西の魔女が死んだ』のおばあちゃんの暮らしをいつでも思い浮かべていた。

 おばあちゃんは魔女で、まいはおばあちゃんから魔女の血を受け継いでいると知った時、まいはおそらく光のようなものをもらった気分になったのではないかと思う。自分も魔女になりたいというまいに、おばあちゃんは魔女になるための基礎トレーニングを施していく。「魔女になるため」「悪魔を退けるため」と称したそのトレーニングは、たとえば早寝早起きをしてしっかりご飯を食べるとか、掃除と洗濯をするとか、地道な努力を続けて意志の力を強くするとか、外からの刺激には決して動揺しないようにするとかで、シンプルに「きちんと暮らしをしていくこと」、「背筋を正した人間になること」をさしていた。今日からできる魔女実践、である。私は魔女になるための修行をしているのだと思うと、きっとただの生活もとても彩り豊かなものに思えるだろう。それを狙っていたのかそうでないのか分からないけれど、その考え方はまいのその後の人生にもとても良い影響を与えていくものなのではないかと思う。

そしてそれは当時中学生だった私自身にも影響を与えたのだろう。周りとの人間関係に悩む思春期中学生のまいと当時の自分の姿は重なるところが多かったはずだ。おばあちゃんがまいに「今日からできる魔女実践」を教えているとき、まるで自分もおばあちゃんから教わっているような心地で、嫌なことも辛いことも自分の力で切り拓いていけるパワーをもらっていたに違いない。


改めて『西の魔女が死んだ』を読んでみると、なぜこれが新潮文庫の100冊に入っているのか、なぜこれがティーンにおすすめされる本なのか、その理由がわかるような気がしてとても面白かった。また何年後かに読み返したいと思う。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集