健康で文化的な生活をし、家族や友人、恋人を愛し、美味しいものを食べて暮らすことが本当に幸せに繋がるのか

  「幸せ」が何なのか正直よく分からない。例えば、愛おしい旦那と、愛おしい子供と共に毎日を綺麗に切々と過ごしている人を見ると、あぁ幸せなのだろうなと思う。家族っていいよね、うんうん。犬と子供とか、幸せの象徴って感じでとても良いよね。最近私は、「砂漠」さんという山でエミューと暮らすOLさんがとても好きでよくTwitterの投稿なんかを見ているのだけれど、彼女もとても幸せそうで素敵だなと思う。それ以外でも、毎日ギターをかき鳴らし、決して豊かではなくとも自分の好きなことを真っ直ぐしている人を見たら、やはりこれも幸せの一つの形だろうな、と思う。正直羨ましい。いいなあ、私もあんな風になりたいな。それでは今の私は「幸せ」ではないのだろうか?「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」と、ジョバンニも言っていたけれど、ほんとうのさいわいとは一体何なのか。

 私はどこに行けば幸せになるのか?例えば私の目の前に、素敵な愛すべき旦那と自分の命より大切な子供がいたとして、私はそれを幸せだと喜ぶのだろうか。山で悠々自適に暮らせば、幸せだと思えるのだろうか。好きなこと、例えば本を読んだり文章を書いたり、を好きなだけやれたとして、私は幸せだとしみじみするのだろうか。

 私には今、大切と言える人たちが大勢いて、アルバイトやら学業やらで鬱屈とする日はあれども概ね好きなように出来ていて、特に病気もなく健康体で、そこそこ美味しいものは食べられているし、自然の中を散歩しようと思えばできるし、本だって映画だって時間さえあれば見たいときに見ることができる。ただ私は今の自分のことを「しあわせだなあ」としみじみ思ったりはしない。楽しそうに休日はジャムを手作りする人を心から羨ましく思うし、バリバリ働いて仕事で成果を上げている人も死ぬほど羨ましいし、山の中の小屋で自給自足で暮らす人も羨ましくなったりする。オーストラリアとかでワーホリとかしてるのも羨ましい。いいなあ、幸せそうだなあと思う。でも同時に、別にああいう風になりたくはないな、とも思う。私は結婚して家族が欲しいと思う気持ちと同じくらい、結婚もしたくないし家族もいらないと思っているし、働いて成果をあげたいと思う気持ちと同じくらい、働きたくないし何もしたくないと思っている。他の人間全部羨ましいし代われることなら代わりたいけど、それと同じくらい羨ましくないし別に代わりたくもない。自分でも何を言ってるか分からないけれど、あぁ多分、このままじゃ私はどれだけ生活にゆとりが生まれても、どれだけ愛する人と一緒にいれたとしても、どれだけ社会的に認められる立場になったとしても、どれだけ自分の好きなことが出来たとしても、「幸せだなあ」と心から感じて生きることなんて出来ないだろうなと思った。

 不幸なわけじゃないし、不満があるわけじゃない。「幸せっ!」って思える瞬間もあるけれど、長期的にみて私は幸せだと感じることなんて出来ない。「恵まれてるな」と思うことはあっても「幸せだな」と思ったことは、多分、ない。健康で文化的な生活をし、家族や友人、恋人を愛し、美味しいものを食べて暮らすことは、恐らく私の幸せに繋がらない。(このことはこういった「幸せ」とされる条件がなくとも私が幸せになれる可能性を示唆しているとも取れる?かも??)

 私がもし、これからどん底の最悪になっちゃったら、その時にやっと「あぁあの時って幸せだったんだな」って思うのかもしれないね。っていうか多分、そうなんだろうね。深い悲しみと絶望の中にいないと幸せだったことって気づけないのかもね。光の中にいたら、自分が光の中にいることって気が付かないもんね。暗いところにいて初めて、あぁ私がいた場所ってあんなに明るい場所だったんだなって気が付けるよね。

 夕飯に食べた鶏肉の炒め物美味しかったから2時間前に戻りたいなぁ。

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