
父よ
わたしは子どもの頃、お酒を飲むことは悪いことだと思っていた。
ただなんとなくだ。
その理由は父が飲むお酒を母が隠すからだった。
お酒を飲んだとて、父が暴力を振るう、暴れる、などということもない。若干、泣上戸にはなるがそれがなんだというのだ。
飲み過ぎると身体に良くないとの正義感?
家計に支障をきたすほどの酒量だった?
そんなことはないはずだ。
母の辞書にはない「お酒」という愉しみ方に価値を見い出さなかっただけだろう。
母は自分の価値観が世界の標準だと思い込んでいる人だから。
昔の冷蔵庫は鍵付きだった。
母は冷蔵庫に鍵をかけた。
父のつまみ食いが嫌だと言った。
そんなちんけな理由だ。
それほどまでの制圧をしてあの人はいったい何がしたかったんだろう。
わたしは子どもだった。
母のすることは正しいと思っていた。
洗脳された自分を恥じた。
間違いに気づかなかった。
わたしが死して父に会った時、
謝りたい、と涙が出た。
29年前に父は天に登った。
2月、四国には珍しく雪が積もっていた。寒い日だった。
夜中に病院に向かう車の運転は、積雪でハンドルを取られた。
夜空さえ白かった。
フロントガラスに向かってくる柔らかいはずの雪が怖かった。
前が見えないほど雪が降っていた。
しんしんと降る雪が父の最期を物語る。
父は料理が得意だった。
しかし母が褒めることはなかった。
「こんなもの、食べられん!」と
音がするくらいの勢いで皿を置いた母を強く覚えている。子どもだったわたしにさえ、この言葉は罵声でしかないことが分かった。
父は相手の気持ちを考えることのできる人だった。
人の悪口も言わない人だった。
わたしが父母の食事の支度を任されていた30年前、わたしが20代の頃だ。魚の生焼けで父がお腹を壊した。父は「にみりが一生懸命作ってくれたものだし、生焼けが原因かなんて確かなことじゃない、にみりには腹を壊したなんて言うな」(後で知ったこと)と言っていた。
母は、「お前、魚が生焼けやったぞ」とわたしを責めた。
父はわたしを思いやってくれた。
母は……。
20代半ば、わたしが関西へ(祝い事)引っ越しが決まった時、母は、「この先、年老いてひとりになったら辛い」といって泣いた。
父は、「祝うべきことや、おめでとうと言ってやらないかん」
と母に言った。
母は自分のために泣き、
父はわたしのために泣いてくれた。
父が逝く時、わたしは「母を守るから…安心して。」と言って父の手を握った。
父が笑った気がした。
夫婦って何だろう。
わたしは父との約束が守れるかどうか心配だ。
自分しか愛せない、そんなところがある母をこの先、たいせつにできるだろうか…
父よ…
父よ…
こんな娘でごめんな。
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