生ハムの乗ってないメロン
寒いからだろう、余計なことばかり考える。猫をこねながら、あたたかいなあ、と思うことで気を逸らしている。生命の温度は、少しまだ、重い。
人に嫌われることも、好かれることもそれなりにある人生を歩んできたように思える。前者の方が意識に残るのは恐らく人間というものがそうやって出来ているからというのと、後者をひどく恐れて避けていたからだ。自分に向けられる好意というものがどうしても気持ち悪かった。それがたとえ、好きな相手だったとしても。自分に価値がないと思っていたかった。その方が逃げ道を確保出来るから。好き、というのはひどく重い。人が、簡単に潰れてしまうほどに。正しく人間をやるようにそれらしい対応を繰り返しても、結局それは身についてはくれなかった。昔より上手く出来るようにはなったが、それは大きな声の出し方を知ったというようなもので、大きな声を出したいのとは訳が違うのだ。ひどく、面倒だけれど。いろいろなことを、少しずつ、考えすぎてしまうのだと言う。一度、HSPなのではないか、と言われたことがある。結局その後何をすることもなかったのでそのままになっているが、本くらいは読んだ方が良いのかもしれない、とは思っている。そうであるにしろ、ないにしろ。近い感覚は其処にあるのだ、と思う。きっとこれを言うのに困る、という言い方は違うのだろうけれど、もしも何か今の状況にラベリングが出来るとして。それが解決に向かうのならばそれで良い、だけれども、別にそうでない場合はどうしたら良いのだろう、と思ってしまったりする。そもそも、ラベリングをしたとして、一人ひとりが抱えるものがすべて一致する訳でもなく、それはただの方針でしかないのに、また透明な選択肢をいたずらに増やしてしまうだけなのではないか、と。
此処が昏く狭い場所などと思ったことはない。多分、結構明るい方だ。けれども目の前には透明な壁がある。それは選択肢と呼ばれるものだけれど、透明だから目には見えない。辛うじて触れることは出来るけれど、形などもよく分からない。というか、見えていないものに触れるのは単純に怖い。そのことをちゃんと言えば良いのだろうけれど、結局すべてはコミュニケーションなので、舌がじりじりと張り付いて何を言えば良いのか忘れてしまう。カンペが欲しい。人生のカンペが。そんなものないって分かっているけれど。
恐らく誰かが見たら、突然何の障害物もないところで蹲ってしまった人に見えるのだと思う。無理矢理に言葉にするのなら、その何もない、自由であることが怖いのだと思う。自由であることはイコール、情報量が多いということであって、それを処理するには少し、頭が足りない。…というのも、勝手に思っていることだけれど。
超能力がある訳でもない、優しい訳でもない、そうなりたい訳でもない。それでもきっと身を守るために、要らない予想が息を吹き返す。集団に属することが正しいことであるのだと、繰り返していく。呑気だね、とついこの間言われた。もし本当に呑気でいられたらせめて一回で死ねていたと思う。
だから、僕の作品は結局社会にはならない。あなたとわたし、それだけで完結する。頭を使わないでいるためには、余計なことを考えないためには、考えるような場所に行かないでいるしかない。好かれないために、人に優しくしない。嫌われると角が立つから、空気のように消えていく。それだけのことが、全然出来ない。
優しく出来るということは、それと同じだけ、人を傷付けられるということだと思うよ。
最低限のラインは守った。とやかく言われる筋合いはないし、言いたいのであればまず、攻撃をしなければ良かった。己の選択の責任を放り投げようとしないで欲しい。自分の責任だって取りたくないのだから。社会に属することが正しいことだと、言い聞かせている。結局それをやめない限り、何かが変わることはないのだと思う。
これでこの文章をいやになるな、で締められないのだから、そういうところなんだよ。