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2022年も、いい食卓を一緒に作りましょう

ある人と、少し距離を置いた。仲間内での集まりで、その場にいない共通の友人!の、給料や出世状況について話題にするようになったからだ。

「あいつはイケてる」「あいつは世渡り下手」

そんな言葉が出てくると、私は「しょ~もな」と思いながら料理を黙々と口に運ぶに徹する。仲間内の大半は同調せず、さりげなく話題を変えたり、適当に流したりしているのがせめてもの救いだ。

10年前だったら、私は「しょ~もな」と口に出していたことだろう。指摘すれば、他者のふるまいが変わると信じていたはずだ。今は、他者を変えることはできないし、変えられるという発想が傲慢だと知っている。場の雰囲気を壊したくないから、黙って料理を口に運ぶ。

「いい食卓」というのは、なかなか得難いものだ。おいしい料理に心地よい接客ももちろん大事なのだけれど、その場にいる全員が「誰かを不快にさせないささやかな努力」を必要とされる。

例えば、料理のサーブを少し待たされたとき。店員さんにモノ申してしまう人がいるけれど、いくら正論でも、同行者は気まずいものである。

例えば、どう見ても相手が避けたがっている話題に踏み込んでしまう人がいる。どんなに素晴らしいご馳走を囲んでいても、一気に砂の味になる。

「食卓」において、「親しき仲にも礼儀あり」はある種の鉄則なのである。

逆に言えば、誰も不快にしないために、「礼儀」の域を超えて、耐えがたい努力や神経質なまでの配慮が必要になったら、それはもう関係性を終えるときなのかもしれない。

人生のあるタイミングではたまたま気が合って親しくなったとしても、互いの環境や価値観の変化などに伴い、どうしようもないズレが生じることもあるだろう。

不快に感じる人と無理をして食卓を囲むことほど、虚しくまたグロテスクなことがあるだろうか。食事とは命に直結するものだから、一皿を共にすることは否応なしに果てしない疲労をもたらす。

「いい食卓は得難い」と書いたが、決して天から降ってくるものではなく、「食卓を囲む全員で作る」ものなのだ。

だからこそ、2022年は「いい食卓を一緒に作れる人」でいたいなと思う。

料理を待たされても「混んでいるし仕方ないよ~お喋りできる時間が増えて楽しいじゃない」と言えるおおらかさと爽やかさを持っていたい。

その場にいない誰かの陰口ではなく、自分がいま熱中しているものについて語れる人でいたい。

「これ、何で味付けしているんだろう?」と不思議に思える、旺盛な好奇心を持ち続けていたい。

ピザやケーキなどの大きくカットされたほうを譲れる人でいたい(子どもか?)。

「この食材をこんな風に食べたの、初めて!」と、毎回新鮮に感動できる感性を持っていたい。

相手に「あなたこれ好きだったよね」と差し出せる、スマートさを持っていたい。

2021年の終わりに、来年の決意表明としてここに宣言しておく。

2021年のいい食卓(一部)

友人と、友人の旦那さんとクロアチア料理を囲む。こうした家族ぐるみの付き合いが年々増えるのがうれしい。
前職の先輩と娘ちゃんと、オーボンヴュータン。
先輩はスイーツへの造詣が半端なく、
ここのシュークリームの特徴について語るのを聞いているだけで楽しい。
友人主催のホームパーティー。おもてなし料理がどれも素晴らしくおいしい。
穏やかな時間に癒された。
阿生さんにお誘いいただいた広東省の郷土料理を食べる会。
食に本気な人たちの集い。その場にいる全員の食へのリスペクトと情熱がほとばしっていて、
幸福な空間だった。
長年の友人たちとキャンプ。この人たちとキャンプやBBQや旅行をして、
ストレスを感じたことがない。奇跡的なことだと思う。
大麦こむぎさんと初対面。お気に入りのお店に連れていってくれた。
その人のお気に入りを教えてもらえること、信頼の証のようで何よりもうれしい。
前述のキャンプの友人たちと、エアビの一軒家を貸し切り料理会。
誰かが必ず、私のためにオールフリーを買ってくれていることに愛を感じる。
長年の(以下略)との食事会。10年前から、天然ボケな発言をする人、突っ込む人、にこにこ穏やかに笑って聞いている人、と役割が変わらない。
ステディな先輩とのお茶会。自分の好きなものや嫌いなものを熟知している人って、どうしてこんんなに話していて楽しいんだろう。

2021年、私と一緒にいい食卓を作ってくれた皆様、本当にありがとうございました。どうぞよいお年をお迎えください。来年もいい食卓を共に囲みましょう。

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