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終戦記念日に思うこと

西の地域は台風のことで、みんな大変。NHKも台風のことしかやっていない。
だからみんながお忘れでも仕方がないのだと思うのだけど、今日は終戦記念日だ。

昔はこの時期になると、テレビでたくさんやってた特番も、今ではほとんどやっていない。
NHKですら少なくなった。

戦争を体験した世代が減ったせいもあると思う。
「学ばなくては」「知らなくては」という姿勢の下の世代も減ったのかもしれない。

だけど、私は祖母から戦争の話を聞いて、諭されたこともあり、忘れてはいけない。たびたび頭に刻み直さなければならない、と思っている。

おばあちゃんと戦争のこと

私の祖母は昭和6年生まれ。戦時下では大阪の京橋に家族みんなで住んでいた。
京橋といえば、陸軍の施設や軍需工場のあった大阪城のすぐ近く。
京橋駅には空襲の際に爆弾が直撃し、たくさんの通勤客が亡くなったとも聞く。

そんな京橋に住んでいたのだから、当然祖母も空襲を経験した。
何度めかの大阪大空襲のときには、自宅ではなく、勤務先にいたようで、一人で逃げまどっていたらしい。

詳しい情景について、語ってくれた記憶はないが、きっと辺りは火の海だったろう。
機銃掃射もあったようで、首のない赤ちゃんを背負ったまま逃げるお母さんを見た、という話も聞いた気がする。

何より印象深いのは、大川の様子について語った言葉。
「みんな熱いから大川に飛び込むんや。飛び込んだら、もうぱんぱんになるねん。そんな人がようけ(たくさん)浮いてた」

そんな情景を横目にしながら逃げ惑う祖母の不安と恐怖は想像を絶する。

頼れる人もおらず、どこに逃げるべきかもわからないまま、必死に逃げ、銀橋(桜宮橋)までたどりついたとき、偶然母親と会えたらしい。

「銀橋でおかあさんに会(お)うてな」

まだまだ幼かった祖母が、まさに阿鼻叫喚の世界で、一縷の光を見つけた安堵はどれほどのものだったか。


ようやく空襲が終わり、長い一日が明けても、おそろしい世界は続く。
当時祖母が住んでいた家のすぐ前にあった小学校の校庭には、火葬を待つ遺体が積みあがっていたと聞いた。
生きながらえた人はそんな情景を目にしながら、日常を続ける。
明日、あの遺体の山には、自分の躯もあるかもしれない。
そんな恐怖を覚えながらも生きるしかない。

おばあちゃんとわたし

祖母は滅多に説教はしない。
けれど、おそらく私が祖母の目に余るわがままを言った時だと思う。

「おばあちゃんの小さい頃には、戦争があってな」
と、祖母の戦争体験談が始まる。
そして最後は諭すように締めくくる。
「あんたらは今、恵まれてるねんで」

わがままを言える親や祖父母が当たり前に存在すること、明日の衣食住を心配しなくてもよいこと、何より今日の命を不安に思わなくてよいこと。
そんなことを伝えたかったのだと思う。

今の日本ではほとんどの人にとって当たり前のこと。
感謝するほどのことではない。
だけど、本当は何より感謝しなくてはならないことであるはず。

そのことをみんなが思い出すためにも、一年に一度のこの日を大切にし続けてもよいのではないか。

かくいう私自身も、日ごろはすっかり忘れて、すぐに不平やわがままを言ってしまう。
感謝なんてあったものではない。

戦争の悲惨さを伝え、私を諭してくれた祖母は今年で92歳。認知症。

「おばあちゃんの小さい頃には、戦争があってな」


あの祖母の声と言葉を頭の中で再生し、自分で自分を戒めなおすしかない。

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