何をしてもダメだった私が辿り着いた世界
8/9 こころセラピスト講座 宇宙の法則編 第6部『涅槃寂静』
私が心の勉強を始めたきっかけは、東日本大震災で心が折れてしまったこと。それまでの私は、現状を打破したくて、変わりたくて、色々なことを試していた。食べ物に気をつけたり身体を温めたり、言霊を意識してみたりおまじないのような事をしてみたり。色んな事をやってみては挫折、やってみては続かず、と繰り返していた。そうやってひとつのことを続けられない自分の事が嫌で嫌でしょうがなかった。
今となってわかるのは、その時の私は何かの力で自分をどうにか良くしてもらいたいと思っていたのだということ。
だから試したその物やメソッドが無くなってしまうと、どうしても行き詰まってしまう。それありきの自分になっていて、自分は何も変わっていなかったのだ。
結局のところ、当然ながら自分の状態が上向いてきている実感は殆どなく、自分自身でもこれは何かがおかしいぞと薄々感じていた。
だけどその原因はずっとわからず、また違う何かを探し求めていくということの繰り返し。
結果、「何をやってもダメな自分」ばかりがクローズアップされてしまい、更に自己嫌悪のドツボにはまっていった。
そんな時に起きた震災。
それで私の心のガタツキは決定的なものになる。沢山の人の死を前に、今まで辛うじてなんとか保ってきた心の平静がどうしても保てなくなり、自分は何のために生きているのかさえ分からなくなってしまった…。
こうして私は、自分で意識しないうちに幸せをどこかに追い求め、方向性を完全に見誤った末に自爆した。そんな折満を持して(?)出会ったのが、おうち整体®の前身である『松井式』だった。
おうち整体®(松井式)は、整体と言うだけあって、当然ながら整体施術法を学ぶ。だがそれだけでなく、同時に心のことを最重要課題としてしっかり学んでいく。私は松井式を整体ではなく心の勉強会(通称ここ勉)で知り、そこから最初に学び始めた。
ここ勉では、お釈迦様の教えである仏教をベースに心のことを学んでいく。
それまで私は仏教なんて法事位でしか関わることもなく、学びたいなんて思ったこともなかったので、紐解かれていく仏教がとても学問的であることに驚き、同時にとても興味を持った。
内容がとても論理的で納得しやすいのだ。仏教は当然ながら宗教のひとつである。正直宗教にあまりポジティブなイメージを持ってこなかった私にとって、仏教の中身が描いていた宗教のイメージと違っていたのも意外だった。
まず、仏教は「神」を立てない。何かを、ブッダを、崇めることはしないのだ。そして教えが本当に論理的で冷静。一方的な物言いや、感情に訴えかけるような伝え方がない。これこれこういう理由だからこうなる、と実際中身はシンプルだ。しかし、価値観が一般的なそれとは180度違うため、かなり難解で納得するには時間がかかる。
更にここからが一番の難関。それまでの嫌な自分と向き合う時間が必ずやってくる。ここがかなり辛い。学んでいるのにできない自分、頭では良くないと分かっているのについ出てきてしまう嫌な自分、これらがいやと言うほど目の前に突き付けられる。
だからこの時点で学ぶことをやめてしまいたくなる。それくらい辛い。そして実際学ぶことをやめてしまう方も多かった。
でも、その頃の私は気持ちの上で崖っぷちだった。
今まで自分なりに散々色んなことを試してきたにも関わらず変化の見えない日々。相変わらず嫌いな自分。
仏教の学びで自分と向き合うのは辛いけれど、講師は一貫して「学び続ければ変わります」と言われる。
本当に辛いけど、それでも続けた先に光があると言うのならやってみようじゃないか。私にはもうそれしか道が残されていないのだから。
そう思ってそこからはもうただただある意味がむしゃらだった。
都合が合えばここ勉に通いつめる。
当時は末っ子が1歳くらい。動くわ喋るわ食べるわ(母乳)飲むわで、正直講座の半分話しが聴ければまだ良い方だった。
メモなんかとる暇もない。だから帰ってから振り返る時は真っ白なレジュメと走り書きの一言から想像するしかなく、物覚えが壊滅的な私にはもう笑うしかないという状況だった。
今思い返すと、私、もうなんか健気…(笑)。
でもそれでも良かった。行動していたかった。
それくらい自分を変えたかったのだ。
そしてそんな日々をしばらく過ごした後、私自身が段々と変わってくる。
雁字搦めだった私の心が少しずつ解き放たれてきた感覚だった。とはいえそうやって搦めていたのは、誰でもない私自身だったのだけれど。過去の自分は、そうやって搦まっているということにさえ気がついていなかったのだ。
さて、
またしても鬼のように長い前置きを経てここからある意味本題に入る。
今回学んだ『涅槃寂静』とは、私の辿った道の行き着く先なのだろうと改めて感じる。まだまだ“寂静”などという境地には当然ながら到底たどり着けていないけれど、私の中の世界は確実に広がってきている。それは、じわじわと拡大しているというのとは少し違い、私には今まで見えていなかった元々ある「無限の世界」が朧気ながら見え始め、その世界が徐々に鮮明になっていくというイメージの方が近い。それに伴って私の心が自由になっていくのだ。
私の感じているこの自由な世界は、本当に無限なんだと思う。
何を願っても思い通りにいかなかった世界と、願えば叶う自由な世界。
このふたつは当然ながら本来同じもの。なのに違った顔を見せる。
それは世界が変化した訳ではなく、そのどちらの顔も「見ている」のは私たちそれぞれ。心の持ちようによって、自由にも不自由にもなるということだ。
学び続けることで少しずつ解放された世界が広がり始めるが、随分楽になったなと思った頃、難題の壁が現れる。最初の頃はその周期が短く細かかった。その難題は今考えてみるとさほど大きなものではなかったのだが、当時の自分からしたらなんとも辛く難しい。その苦難を繰り返すことにより少しずつ楽な時間と心持ちが、量的に増えていく。すると度々講座へ通わなくても自分で自分の心持ちをコントロールできるようになってくる。これは続けてきたからこその発見で、自分でもやっとここまできたのかと少し嬉しくなった。最初の方で書いた「どこかに幸せを求め、何かに頼っていた自分」から自分の足で立って居られるようになったことを実感したからだ。ここまでくると本当に楽に生きられるようになった。
だが、そうなってきた今でも突然大きな壁が立ち塞がる時がやってくる。久しぶりに感じる苦悩。だけどここ最近になって壁の回数が減ってきたからこそ見える、「私はこういうところに執着していたんだ!」という事実が面白くもある。ものすごく苦しい時間ではあるが、そこを抜けるとまた急にスコーンと世界が広くなるからだ。
今の私が体感してきた限り『涅槃寂静的、悟りの峠のようなもの』は、学びが積み重なったら突然訪れるというよりは、その時の自分に合わせて規模の違うものが何回も訪れてくるように感じている。私の思っているものがそれなのかどうかは定かではないけれども…。
最終的な「峠」はいつ越えられるのかわからないが、今の時点でも少しずつ見晴らしが良くなっているのを感じている。そして上にいけばいくほどまだ上があるということも。
自分を変えたい、生きるのが苦しいという思いから始めた心の学びだが、この辺りまで来るともはやライフワークになっている。生きているうちに成し遂げられるかはわからない大きなプロジェクト。でも成し遂げられなくてもそれはそれでいい。そうやって学びながら進んでいく今を楽しむことができるようになったら。
苦しみも困難もまた一興と思えるなんて、過去の自分からは考えられなかった。
人生を楽しむことができる自分が大好きだと、やっと今なら言える。