ざっとわかる現代ウクライナ1 脱露入欧を目指して
1.はじめに~欧州に接近するウクライナ~
現在、ウクライナのEU加盟手続きが急速に進められています。フォン・デア・ライエン欧州委員長はキーウ入りし、通常数年かかる手続きを数週間で終わらせる意向をゼレンスキー大統領へ伝えました。
NATOは、開戦当初は介入に消極的でしたが、ここ1週間でウクライナへの武器提供を加速させています。しかし、ゼレンスキー大統領は、NATO加盟はできないと述べています。これは、ロシアとの停戦合意の項目に「ウクライナの中立化」があることから、ロシア側への譲歩を示しているのではないか、と言われています。
こうしたウクライナのヨーロッパへの接近は、ウクライナが独立した直後から続いていました。独立ウクライナの目標は、ヨーロッパの一員となることだったのです。
2.脱露入欧政策
ウクライナは独立当初、ロシアを含む旧ソ連諸国とは距離を置き、欧州共同体へ加盟し、ヨーロッパの一員となるべく「脱露入欧」を政策方針としました。1993年の「ウクライナの外交政策基本方針に関する」議会決議では、「ウクライナの外交政策の将来的な目的は、ウクライナの国益を害さないという条件ではあるが、欧州共同体への加盟である」と明記されました。
しかし、ウクライナは石油・天然ガス資源の自給率が低く、またソ連時代から引き継いだ工業地帯は重工業に偏っており、国際的競争力を持たなかったため、経済的にはロシアに依存せざるを得なくなりました。ウクライナの外交方針は、軍事的中立を維持しつつ、欧米・ロシアとの間のバランスをとるという方向へと修正されました。
3.オレンジ革命
ウクライナ国民の間では、一向に改善されない生活水準や、オルガリヒ(新興財閥)による政財界支配、汚職の蔓延に不満が高まっていました。さらに、2000年末には反体制派ジャーナリストの暗殺事件に、現職のレオニード・クチマ大統領が関与していたという疑惑が、政権に対する不信を強めました。これ以降、野党勢力などを中心とする反政権運動が活発化しました。
2004年12月26日の大統領選挙では、野党代表のヴィクトル・ユーシチェンコが勝利しました。この政権交代は、野党のイメージカラーから「オレンジ革命」と呼ばれました。
しかし、ユーシチェンコ政権下でも、オルガリヒとのバランスと妥協を通じた政策決定は大きく変わりませんでした。さらに、2008年の世界的な経済危機と、2009年のロシアによる天然ガスの価格引き上げにより、ウクライナの経済はマイナス成長に転じました。
ユーシチェンコは成果の上がらない社会経済政策から国民の目をそらすために、民族主義政策を打ち出しました。言語政策ではウクライナ語化を推進し、歴史問題ではステパン・バンデラらの復権などを提案しました。これにより、ロシアとの関係は悪化し、さらに、ロシア語の地位低下は、国内の東部やクリミアに住むロシア系住民の不満を招きました。
4.NATOの東方拡大とウクライナ
新欧米派であるユーシチェンコ政権は、それまでのバランス外交から、EU・NATOへの早期加盟を目指すようになります。NATOは1997年以降、中東欧諸国への拡大を進めており、1999年にはポーランドとハンガリーが、2004年にはスロヴァキアとルーマニア、バルト三国が加盟しました。ユーシチェンコ政権は、2005年以降NATOへの加盟と必要な改革についての協議を進め、2008年4月のブカレスト・NATO首脳会議では、ウクライナと同じく旧ソ連構成国であったジョージアが将来的にNATOへ加盟することが宣言されました。
しかし、こうしたNATOの東方拡大に対し、ロシアは警戒感を強めていました。ソ連崩壊後も、ロシアは東欧諸国や旧ソ連構成国を自分の「勢力圏」と見なしており、NATOの東方拡大により、これらの国々対するロシアの影響力を大きく損なわれました。
2008年8月、南オセチアの独立をめぐりジョージアとロシアとの戦争が勃発しました。この戦争はブカレスト会議での宣言に対し、ロシアが強硬な姿勢を示したといわれており、これ以降、旧ソ連諸国のNATO加盟の議論は急速にしぼんでいき、ウクライナのNATO加盟プロセスは凍結されます。
5.ユーロ・マイダン革命
2010年に大統領選挙においては、オレンジ革命の際にユーシチェンコの対抗馬であったヴィクトル・ヤヌコーヴィチが当選しました。ヤヌコーヴィチも、当初はロシアや旧ソ連諸国とは距離を置いていました。しかし、ロシアは自国主導の「ユーラシア経済連合」構想にウクライナを巻き込むべく、天然ガス価格の引き上げ等の経済的圧力をかけました。これを受け、2013年11月21日、ヤヌコーヴィチはEUとの連合協定への調印1週間前に、締結を凍結することを発表しました。
ヤヌコーヴィチ政権下での経済不振や政治腐敗に対し不満が溜まっていた人々は、EUへの加盟が棚上げされたことに激怒し、キーウの独立広場(マイダン・ネザレージュノスチ)に集まり、数万人規模のデモを実施しました。野党勢力もこのデモに合流しました。
ヤヌコーヴィチはデモを鎮圧しようと治安部隊を投入し、デモ隊と治安部隊との衝突で負傷者が増加しました。さらに、「自由」や「右派セクター」などの暴力的な極右団体が加わったことで、衝突はより激しさを増し、死者が出るまでに至りました。
ヤヌコーヴィチはハルキウに逃亡し、そのままロシアへと亡命しました。ヤヌコーヴィチは職務不履行で大統領職を解任され、親欧州路線派のオレクサンドル・トゥルチノフが大統領代行に就任し、さらに、アルセニー・ヤツェニュークを首相とする暫定政権が発足しました。この政変を、独立広場が舞台だったこと、また欧州入りを目指したことから「ユーロ・マイダン革命」といいます。
6.ウクライナ危機後の親欧米・反露化
このユーロ・マイダン革命をきっかけに、ロシアによるクリミア併合、東部のドンバスで親露派分離主義との紛争が発生しました。このため、新政権はより親欧米へと傾きました。
2017年9月にはウクライナ・EU連合協定が発効され、経済分野では相互の関税の段階的撤廃が進められ、政治分野では国家汚職対策局・国家汚職防止庁等の汚職対策・改革が進められました。
NATO加盟についても加盟支持が増え、2017年6月の世論調査では69パーセントの国民が加盟を支持しました。また、翌7月には、ペトロ・ポロシェンコ大統領がNATO事務総長との会談において、2020年までにNATO加盟基準を満たすと言及しました。しかし、NATO側は、ロシアを刺激するリスクがあることや、NATO内に紛争を持ち込むことになることから、ウクライナの加盟について多くの加盟国が否定的な態度をとりました。
一方、ロシアとの関係は悪化の一途をたどりました。ロシアは天然ガスの価格を引き上げ、さらにCIS自由貿易条約の例外として、ウクライナからの商品に関税を課し、ウクライナもこれに対抗措置をとりました。さらに、ウクライナ・ロシア間の航空便の運航全面禁止、ロシア系銀行の締め出し、ロシア系SNSのアクセス禁止、CISでの活動停止などが実施されました。
7.まとめ
なぜウクライナはヨーロッパを目指すのか。それは、ロシア帝国・ソ連時代を通してロシアから抑圧されてきた歴史があり、一刻も早くロシアから離れて独立した国となりたいからだと思います。逆を言えば、ウクライナにとっては、ロシアはそれほど魅力がない国なのです。それはウクライナだけでなく、ポーランド・ハンガリーなどの東欧諸国や、旧ソ連構成国であるバルト三国がEU・NATO入りを果たしていることからも伺えると思います。
しかし、ロシアにとっては、ウクライナは民族的にも近く、広大な土地と人口を有している魅力的な土地であり、また、NATOと自国を隔てる緩衝地帯でもあり、何が何でも手放したくないという気持ちがあります。そうしたロシアの大国主義が、今回の戦争の大きな要因となっていると思います。
ウクライナは、政治腐敗やヨーロッパ最貧国レヴェルの経済不振などの様々な問題を抱えていますが、健全な民主国家として再建され、無事に欧州の仲間入りを果たすことを願うばかりです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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参考
服部倫卓,原田義也編『ウクライナを知るための65章』明石書店,2018年
松里公孝『ポスト社会主義の政治――ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの準大統領制』筑摩書房,2021年
小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』筑摩書房,2021年