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[読書記録] 日本語に主語はいらない
「愛らしい」「赤ん坊だ」「泣いた」―日本語の基本文はこの3種で必要十分である。英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を完璧に論破する、すべての日本語話者、必携の書。
[2008-07-01]
この本は、反面教師にしたいなと思います(ということで、カテゴリも「言語学・日本語学」ではなくて「言語観」に分類です)。
私を含めた日本語教師にとっての一番の問題は何かと言えば、それは英語や仏語と日本語の根本的な違いがどの文法書にも明記されていないことだ。国内国外で使われているほとんどの「日本語教科書」が「学校文法」に基づいており、その学校文法は西洋語、特に英文法を下敷きにしているからである。
まず、この主張の根拠としてこの本の中で批判されている対象をきちんと調べて理解されているのかについてはかなり疑問が残りました。しかも、攻撃的な文章なのが非常に気になります。
日本語教科書についてはよく分かりませんが、「日本語教科書」そして「学校文法」に向かうべき批判の矛先が、理論言語学である生成文法に向かっているところが理解できませんでした。私は、この「学校文法」と「生成文法」、そして「文法論」と「(特に第二言語の)文法教育」は異なるものだと理解していましたが、それがどうして同じ土俵で語られているのでしょうか。
この本の問題は、「日本語に主語はいらない」かどうかということを議論する以前のところにあると思いました。まず、海外にずっといることで日本の情報に疎くなることの危険性。著者はカナダの大学でずっと教えているそうです。次に、自分の主張を魅力のあるものにしたいがために、あまり良く知らないものを批判する姿勢。まだまだ生成文法に詳しくない私でさえも、それに関する記述について、読んでいて「おかしいな」と感じる部分がいくつもありました。
そして、その分野の研究者全体を貶めるような行為です。この本を読むと、言語学、日本語学、日本語教育は英語中心に物を考える視野のせまい人達の集まりのように感じますが、それはちょっと言いすぎじゃないでしょうか。
著者の基本姿勢は、次の一件からも判断できるんじゃないかと思います。
生成文法の影響が大きい(とは行くまで知らなかったのだが)ある学会に参加したことがある。その学会は名前に日本語と朝鮮語を冠していた。(中略)発表論文の応募要綱には、「日朝両語に関する発表を優先する」とあったので、私は頭の中で、さぞや日朝の言語比較の有意義な発表が聞けると期待していたのである。(中略)日本人と韓国人で米国に留学している大学院生や研究者が多かったが、(発表の多くは)日本人は英語と日本語、韓国人は朝鮮語と英語の比較なのだ。アメリカ人はというと、自分の勉強した日朝いずれかの言語と母国語の英語を比べるわけだ。これには恐れ入った。
生成文法以前に、だってこれはアメリカの大学での出来事ですよね。日本や韓国で開かれた学会ならまだしも、当然こうなることも予想できるでしょう。それを大げさに「圧倒的英語中心主義に驚嘆」し、「発表者は日本語と朝鮮語を比較したってあまり意味がないと思っているのだろう」と見下げた言い方をするのはちょっとなぁと思いました。