今年印象に残った本⑩『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ
筆者が『溺れるものと救われるもの』を最初に読んだのは2016年だった。当時筆者は、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』を読んで、そこで中心的に取りあげられていたプリーモ・レーヴィの本はやはり読んでおかなければならないだろう、と思っていた。
アガンベンがレーヴィを論じるにあたって重視していた「灰色の領域」という概念が今ひとつつかみづらかったので、きっと『溺れるものと救われるもの』を読めば明瞭になるだろうと考えてもいた。
歴史現象を「単純化する」のを拒むレーヴィは、ナチスに協力するよう強いられたゾンダーコマンドを例に取りながら、「善と悪を区別し、一方に味方し、善人をこちらに、悪人をあちらにと振り分ける、最後の審判の時のキリストの行為」によっては収容所の現実は思い描くことができない、と本書で訴えている。
レーヴィは「あいまいさを好まない」「若者」に向けて『溺れるものと救われるもの』を書いたと言うが、筆者がこの本を読んだ時にはいわゆるBrexitが実現してしまっていており、「あいまいさを好まない」のが何も「若者」だけではないことが明らかになっていた(そして、同年の11月にはドナルド・トランプが一回目の大統領選勝利を果たしていた)。なので筆者は最初、レーヴィもエイジズムに捉われていた人なのだろうか、とちょっと眉をひそめた。
ところが、レーヴィはすぐさま「若者」に限定した評言を撤回し、「明晰さを、はっきりとした切り口を求めるのは」「ラーゲルに到着したばかりの囚人たち」も同じだったと述べたうえで、そうした「明晰さ」が収容所ではまったく実現しなかったと続けている。
通常、ナチスの強制収容所を論じるにあたって、我々は「SS対収容者」という構図を思い描きがちになる。しかし、実際は「同じ境遇にいる仲間たちの連帯」は実現せず、「単子」同士の「絶え間ない、絶望的な戦いが行われていた」、とレーヴィは回想している。
たしかに強制収容所ではSSによる収容者の虐待や、非人間的な処刑が横行していた。だが、それと同じくらい収容者にとって「絶望的」だったのは、お互いを信じきれない者同士で同じ空間に棲みつづけなければならなかったことなのだ――それを知らされて、まだ強制収容所の実態についてくわしくなかった筆者は深い衝撃を受けた。
それ以来、筆者は事あるごとに『溺れるものと救われるもの』を再読してきた。二度目の具体的な時期は思いだせないが、多分2018年だったと思う。三度目は2020年、四度目は2022年、それから2023年は複数回読んだし、今年に入っても何度も本をめくりなおしたので、もうどのくらい読んだかはわからなくなってしまった。
『溺れるものと救われるもの』を何度も読みなおして思うのは、自分はまだまだこの本をしっかりと読みこみきれていない、ということだ。本書を読むと毎回違う部分に注目が行って、なんで前回はこんな大事なところを読み飛ばしていたのか、と自分の不明を恥じる羽目になるのである。
先ほども述べたように筆者は初読の際、「灰色の領域」に注目しながら本書を読んでいた。次は「回教徒」について書かれた部分を集中して読んだ。
三度目に注目したのは、レーヴィが証言活動のなかで再三「なぜ『それ以前』逮捕を逃れようとしなかったのですが」と聞かれた経験を踏まえながら、その回答として書かれた以下のような箇所だった。
筆者は『溺れるものと救われるもの』を二度読んだ際、この文章に目をとめて読んだ記憶がまったくなかった。にもかかわらず、三度目に再読した際には急にこの文章をリアリティをもって読めるようになった。筆者がこの間に体験した出来事が、一つの要因になっていた。
筆者の住む山形では、2020年の7月に大雨が降って最上川が氾濫した。筆者の住む地域も近くの川があふれ、避難指示が出たので、避難所で一夜を過ごすことを強いられた。幸い、家屋は床下浸水程度で済んだのだが、それまでニュースをつうじて他人事として見ていた洪水被害が急に自分事になった。
現在、世界各地では毎年のように大規模な洪水被害が起こっている。そのたびに何人が亡くなって、何人が避難を強いられて、というニュースが流れるのだが、同時に地域によっては家を失う被害も起こっている。あらためて家を建てて生活をやり直すこともできるが、頻繁に洪水が起こりうる地域の場合はそもそも移住も視野に入れなければならない。となれば、人は故郷を後にせざるをえない。
自分がそのような目に遭ったら耐えられるのだろうか、と漠然と思っている時に出会ったのが、レーヴィの書いた以上の文章だった。「この村、街、地方、国は私のものである。そこで生まれたのだし、祖先はそこに眠っている。そこの言葉を話すし、そこの習慣や文化を身に着けている」「そこを離れたくないし、離れることもできない」――レーヴィが生きた1930年代のイタリアに比べれば、2020年代の日本で生きる筆者はだいぶ移住の自由に恵まれているので「離れることもできない」わけではないとは思うのだが、一方で彼が言いたいことは切実にわかるようになった。
同時に、これまでさして郷里というものに愛着がなかった筆者にとって、レーヴィのいう以下の文章が言うところも理解できるようになった。
2023年以降はシオニズムに対決するものとして『溺れるものと救われるもの』を読むようになった。きっかけは、トム・セゲフの『七番目の百万人』の以下のような叙述を読んだことにさかのぼる。
イスラエル建国の父ダヴィド・ベン=グリオンや、イスラエルを代表する新聞『ハアレツ』は「収容所の生き残り」を「倫理的に欠陥のある者が多い」と蔑視し、建国にあたって必要な「民族最良部分」が失われてしまったと嘆いているわけだが、これを読んで筆者はすぐさま、レーヴィが同じようなことを書いているのを思いだした。
「最良部分は真っ先に殺されてしまったのだ」「最良の者たちはみな死んでしまった」――これらの言葉は、一見すると似たもののように見える。しかしながら、その意味内容はあきらかにかけ離れている。
シオニストは、建国にあたって必要な「最良部分」であるユダヤ人が「殺されてしまった」ことを嘆いている。そして、「倫理的に欠陥のある者が」たくさん残ってしまったと迷惑に思っている。彼らにとって重要なのは、ユダヤ人国家建設のために必要な人材であって、役に立たないユダヤ人ではないのだ。だから、彼らが「最良部分は真っ先に殺されてしまったのだ」という時はストレートに解釈しなければいけない。
一方で、レーヴィがいう「最良の者たちはみな死んでしまった」は自嘲の意味合いが多分に込められている。収容所を生きのびた者たちは「最悪のもの、エゴイスト、乱暴者、厚顔無恥なもの、『灰色の領域』の協力者、スパイ」だった。レーヴィはかならずしも彼らのように非倫理的に振舞ったわけではないが、だからといって自分が「最悪のもの」ではないと言いきることもできない。どれだけ否定したところで、自分が「最悪のもの」だという疑いはいつまで経っても晴れはしない。だから自分は「最良の者」などとは言えない――そんな屈折した感情のもとで発される「最良の者たちはみな死んでしまった」という言葉が、シオニストたちの放つ「最良部分は真っ先に殺されてしまったのだ」という言葉とは全然違っていることは言うまでもない。
これを確認した時点で筆者は、イスラエルは建国以前から根本的に間違いを犯していたのだと確信した。イスラエルの罪は、アラブ人を追い出し、パレスチナ人を迫害しつづけていることに限らない。彼らは同時に、ユダヤ人もまた蔑視したという間違いを犯していたのである。
その後筆者はジュディス・バトラーの『分かれ道』を読んで、レーヴィが1982年のレバノン侵攻を非難していたと教えられて、ますます彼の重要性を思い知らされた。筆者は『溺れるものと救われるもの』を読みこみきれないでいるどころか、レーヴィ自身のことすらまるで知らなかったのだ。
2024年の末になってもなおガザ侵攻が続くなかで、イスラエル批判にあたってレーヴィを参照するという筆者のスタンスは変わっていないが、一方で最近は、『溺れるものと救われるもの』の書き出しに置かれた以下の文章が気にかかっている。
最近ようやく終わりを迎えたシリア内戦では、化学兵器の使用や、収容所での拷問や処刑など、様々な非人道的な行為がアサド政権によって行われた。
シリアから逃れてきた人々は世界中にそれらの出来事を証言したのだが、それを聞く国際社会はかならずしも有効なリアクションを示してきたわけではなかった(でなければ、内戦が13年も続くはずがない)。中には西側の「プロパガンダだと言」う者さえいたし、「すべてを否定する」アサド「を信ずる」者だっていた。
こうした事例を見ると、SSの兵士たちが言ったとされる「万が一だれかが逃げ出しても、だれも言うことなど信じないだろう」という主張は、きわめて不快な話だが正しいように思われる。平々凡々な生活を送っている人間は、過酷な体験をした者の証言に接してもその内容が「あまりにも非道で信じられない」ものなのである。
他ならぬレーヴィこそがこうした無理解に出会った人だった。彼は『溺れるものと救われるもの』を書いた翌年に、自宅アパートの階段から転落して死亡した。遺書はないが、自殺とする見方は多い。何が原因で転落が起きたのかはわからないが、もし仮に自殺だったとするのならば、聞き手から浴びせられた無理解が一つの原因だったとは十分に言いうるだろう。
どうすれば、レーヴィを死に追いやったかもしれない無理解をなくすことができるのか……それはたぶんレーヴィに教わるのではなく、筆者自身で考えなければならないことなのだろう。