いわゆる "差別コスト" という語に対する私見
相互に抑圧し合う社会Y において、「属性Bだけが抑圧されている」と強弁したい派閥がある。 彼らは、「Bを抑圧しようとした結果、Aにもしわ寄せが行っている」とか「Bにβさせる世界を無理やり保持しようとしたために、Aの一部が………」 と述べる。 これがいわゆる "差別コスト" 論と思われる。
しかし、現実が社会Y であるならば、この論はAとBを入れ替えても成立する。 つまり、「A差別は存在せず、そう見えるのはB差別の差別コストだ」 とも 「B差別は存在せず、そう見えるのはA差別の差別コストだ」 とも言えてしまう。 実際にそこにあるのは、AB差別で、どちらにも取り組んでいけば良い。
「A差別は存在しない」と強弁したい派閥は、「AがBを抑圧するために社会Xを作った」という〈物語〉を絶対視する。 だが、確実に社会Xだとは示せない。Bの被抑圧は社会Yでも起こること。そして、Aの被抑圧が示された瞬間、社会X の仮説は揺らぐ。ここで、差別コスト論が苦し紛れに生まれたのではないだろうか。
また、属性Bの中に、 「自分がβをやらされるのは嫌だが、Aにはαをやっていてほしい(∵メリットを自分が享受したい)」 という人が一定数存在するのも事実だろう。 そして、そのエゴの正当化のために、AがBを抑圧するために社会Xを作ったという〈物語〉や差別コスト論を使っていたりもするように見受けられる。
この社会Z が私の理想。 属性Aだから/属性Bだからという理由で、強要も禁止もされない社会。そして、求めているのは機会均等。 属性毎に選好の偏りがあることは自然なので、数を無理に揃えるのはナンセンスと考える。
※ 今回の記事は一般化した形で書いてみた。Aに男性,Bに女性を代入して読めば、ジェンダーのこととして読めるだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?