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友達のおじいちゃんが認知症になった話


金曜の夕方に散歩をしていたら、見覚えのあるワンちゃんとデカいシルエットを見つけた。

「名古屋にいるはずだろ!」

「昨日、急遽帰ってきた」

柴犬を連れた彼は、私の家の近くに実家がある保育園からの幼馴染である。

話を聞くと、おじいちゃんが認知症になって実家が大変になったため、金曜の夜から土、日、と仕事を休んで岡山まで帰ってきたらしい。

名古屋から岡山まで車でサッと帰って来れるのだからなかなかパワフルなやつだ。

それにしても、認知症とは……

小さい頃からよく知っているおじいちゃん。
元板前で、料理が上手。
明るくて爽やか。そんなイメージだった。
近頃は目が悪くなっていて、顔の判別も難しいとは聞いていた。
つい最近まで夫婦揃って散歩していたのに……

入院しているおばあちゃんにお見舞いに行っても、
「それで幸子(おばあちゃん仮)はどこ?」
「いやさっき会ったじゃん」
「幸子があんなおばあさんなわけがない」と若かったころの妻を探したのだそう。

夜中に活動を始め、2時間毎にトイレに行くが、トイレの場所もわからない。
つまり、介護する方は寝れないのだ。

布団をこねこねし始めたので「何してるの」と聞くと、「白菜を揉んどる」のだという。
板前の仕込みのことだそうだ。
40年くらい前に時が遡っているらしい。

介護をしている彼の母が、精神的にも体力的にも参っているらしく、彼は急遽土日だけでも役に立てばと名古屋から帰ってきたという話だった。

彼は「なかなか面白いことしとるよ」と笑っているが、毎日実際一緒に過ごしていたら、そうはなれないと思うとつぶやいた。

「怒らないことが一番大事。一番楽なはず。なんだけど、それが多分一番難しい。実の親だとな」と、彼はやる気なく伏せをして動かないワンちゃんを見ながら言った。


彼の話を聞いて、家まで歩きながら考えた。

三歩歩いたら忘れる私も、他人事ではないと思う。

妻や娘、兄弟、父母など、大切な人たちを忘れてしまうこと。悲しませてしまうこと。そんなことは私にとって地獄でしかない。

大切な人の名前を忘れたり、その存在自体を忘れたり、そんなこと絶対にあってほしくない。
とても恐ろしいことだと感じる。


なぜ、恐ろしいのだろうか。

考えてみた。

ただ忘れるだけだ。死ぬわけじゃない。

それなのに、死と同じような恐怖を感じる。


この恐怖を「情報こそが生命だ」という仮説で説明できるかもしれない。

科学的に「愛」を捉えた時、どう定義づけるか。

その仮説では、愛とは、お互いを記録するためのシステムらしい。

つまり、相手の脳に自分の情報というコピーを作ることで、情報の自分は生きながらえる。というわけである。

愛とは、相手の記憶に残ること。
自分の記憶の中に、相手を保持すること。

私は、大切な人たちを愛しているからこそ、私の中の記憶を失うことを恐れている。
大切な人たちが、私の中で死んでしまうのと同じだから。

彼らを記憶に留めておくことが、愛することができなくなるから。

それは彼らを殺すことと同じだから。

だからこそ私は、記憶を失うことを恐れている。

の、かもしれない。



認知症。
できることなら、なりたくはないものだ。

最近は、若年性認知症などもあると聞くし。

なった時のため、みんなを忘れた時のため、私は記録を残したり、遺書を書いたりすることにした。

大切な人を思い出せるように。

そして、私がどんなことを考えていたかを大切な人たちに向けて残しておくために。


ちなみに、遺書という名のラブレターを書くのはおススメです。

前は妻に書いたけど、今度は娘に書こうと思う。

いつ死んでもいいと思って、悔いなく生きられるから。

定期的に書き溜めていきたい。

友だちのおじいちゃんが認知症になった話から派生した、記憶と愛についての考察でした。

読んでくださり大感謝です。

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