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『当事者は嘘をつく』 小松原織香

 自分に起きたことを性被害と呼んでいいのか。
 本当のことに違いないのに本当のことなのか確信が持てない。
 自分に都合よく改竄していないと言えるのか? 
 何度も思い返すことで強化してしまったのではないのか? 
 真実を語っているはずなのに後ろめたさが付きまとう。
 自分で自分を信用できないこの感覚は非常によくわかるものだと思った。


 性被害を被害と言い切れない感覚はいわゆる毒親育ちの子の感覚とも似ているかもしれない。
 本当にひどい被害を被ってきた子とは違う。
 自分だって望んだ(こんなこととは思わなかったけど)。
 この程度で辛いと言ってはいけないんじゃないか。
 それぐらいで傷ついた私が弱すぎるんじゃないか。
 回避しようと思えばできたんじゃないか。自分が悪いんじゃないか。
 相手とすれちがっただけでは? 
 自分が何か思い違いをしているだけなんじゃないか。
 そう思って収めようとしてもトラウマ的反応が身体に染み付いて自分自身に突きつけられている。
 おかしいのは自分なんじゃないか。
 妙な後ろめたさを覚える。

 これらの声は何事もなくあってくれと願う周囲の声や、矮小化したい相手の声を私の中にとりこんでいるようにも思う。だから混乱する。

 彼女が被害にあったのは交際中の相手から、しかも同意の上でもった関係であったから余計だ。 
 同意はした。でも、こんなことだとは思わなかった。
 尊重されずに、一方的に押し通される。
 最中の記憶は曖昧で、でも蔑ろにされた感覚があり心も体もぐちゃぐちゃだ。
 なのに、これを被害と言っていいんだろうかとひけめを持ってしまう。
 大切にされたかった想いが踏み躙られて、なお確信を持って嫌だと訴え切ることができない。
 
 断じてこんなふうに扱われるべきじゃなかったと自分に味方してやれる時と、被害なんて大袈裟(私の記憶は真実か?)どうにかできたでしょうと責める声に味方してしまう時とを揺れ動く。
 
 当事者という立場を離れて研究者として客観的に評価してみようと試みたくなる気持ちは共感できると思った。

 当事者なのか研究者なのか。どの立場に置いてものを言っているのかを自分に問うような感覚が彼女にはあった。
 研究をしても当事者であることが客観性を削いでいると思われるんじゃないのか、知られると信用を得られないのではないかと恐れを感じる。
 当事者という色眼鏡を貼り付けられ研究者としてまともに見てもらえないような感覚を覚える。

 的外れかもしれないけど読みながら私は自分を重ねた。自分ごとの話になるけど、『あなたを愛しているつもりで私は——。娘は発達障害でした。』を出した時、私はそのような何かを貼り付けられてしまうような感覚を持ったのだった。
 これは小説なんだよ、架空のこと、私に娘はいないんで、といくら言っても通じないような、最初から苦労したんだね、大変だったねと決めてかかられるような不快感。違うと言っても届いた感じがしない。
 もちろん発達障害に全く関わりがなかったわけじゃない。濃密に関わってきたと言えると思う。でもなんか決めつけないでというような、でも出したのは私だからしょうがないのかというような、抵抗感と諦めの気持ち。
 そこに私はいないのにそれをいう権利は書き手にはない。小説としては読まれてないんだと思ってしまう半人前感覚。私はまともに見てもらえないと思い込み、ただただ能力の不足として受け止める。

 私は毒親育ちの当事者(彼女と同じで言い切るのに後ろめたさがあるが)で家族関係や連鎖、思い込みの発見とそれを紐解く個別のストーリーに関心が強い。
 それをテーマに小説を書くが、そこであなたの経験が、あなたの感情がえがかれているのですねなどと言われるとうんざりしてしまう。
 私じゃない。私のことなど何も書いてない。ただ私の目下の関心事で、描いて理解を深めたり発見したりということがただ必要で、形にしたものを見てもらいたくて(それは幼児が親に見て見てとせがむのと似た欲求だと思う)書いているだけだ。
 なのに重ねられる。そして書いて出した以上はどう読まれようとも書き手にノーという権利はない。受け止めなきゃいけない。
 この侵入感と抵抗できない感じは彼女の、当事者だとしれたら研究者としてまともに扱われなくなるんじゃないかという恐れと同じものではないかと私は思った。

 この本には彼女の支援者に対する非常に強い不快感、敵対心が表現されている。
 そこには「理解してもらいたかった」という強い期待と失望が見える。
 支援者によってあまりに深く傷つけられるのには、期待の大きさが関係しているんだと思う。

 溺れている最中に手を差し伸べられたなら、相手がどんな人間かをちゃんと見る間もなくしがみついてしまうだろう。この苦しみはもうおわるんだ(理解されることによって、受け止められることによって)と安心することだろう。相手が支援者を名乗ったなら尚更だ。

 なのにその支援者があなたを知ろうと耳を傾けるのではなく、支援者の思う形に私を当てはめようとしたなら「分かりますよと言ったくせに、まるでわかってないじゃないか」「こちらが弱っていることをいいことにまるで私よりも私をわかっているかのように言って勝手な被害者像を押し付けて反論を受け付けない」「まるで何もできない弱い人間であるかのように感じさせる」と怒りを抱いてしまうのではないだろうか。
 手を差し伸べたのが陸上なら、どんな相手か見極められたかもしれない。でも溺れているときには難しい。その手がどんなものでも信用して身を委ねたとして「ちゃんと相手を見なよ」「相手に期待しすぎ」というのは酷だと私は思う。
 見極められなかったことも傷を深めてしまったことも、溺れている人の責任ではない。でも自分の中にパワーが戻っていなければ、それすら私が愚かだったのだと引き受けて(憎しみを自分に向けて)しまいがちだ。
 彼女はパワフルで、支援者を大いに憎んだ。わかってくれないことを、間違った解釈を吹聴したことを許さなかった。現実の自分にとって効果的だったかどうかは置いておいても、彼女は自分を守るためにこんなに大きなパワーを持っているのだと感じ入った。

 支援者が間違って理解するのがいけないんじゃない。理解してもらおうとしているのに聞く耳持たず、自分の思う像に押し込み違うと言っても聞く耳を持たずに決めつけることが怒りを招くのだ。
 弱っているから、助けを必要としているからと言って、対等な相手としてあつかわなくていいわけではない。


 

 「私は可哀想じゃない」と反発する人の気持ちをこれまで私はよくわからないと思っていた。今もわかってないかもしれない。

 それは「私は可哀想ではない」=「私は辛くなかった」と感情を否認しているように捉えていたからだ。
 認めないものは取り扱うことができない。辛かったよねと当時の自分の感情を認め今の私が受け止める(可哀想だなと思い労う)ことから変化が始まると私は考えていた。
 「私は可哀想ではない」と否定することは今の自分が当時の自分を「辛かったなどと言うな」と脅して感じさせないよう強いているんだと思っていたのだ。

 けれどこの本を読んで人から「可哀想な人」という枠の中に入れられるということは、弱り自分で自分を支える力がない人のように扱われることは、自分の持っているパワーを無視されることなんだと思った。

 確かに被害者は心に大怪我をして一時的に自分の中にあるパワーを見失っているかもしれない。
 だからといって「力のない人」という枠の中に閉じ込められて屈辱を感じないはずがない。
 「自分では何もできない人、わかってない人、だから私が支えてあげます(対等ではありませんよ)」などと言われて傷つけられないはずがないのだ。
 「今は見失っているだけで、あなたはもともとちゃんとパワーを持っている」と力づけてほしいのに、支援者から、あなたは何もわかっていない、自分では何もできないというメッセージを送られたら、自分はダメなんだと思い込み支援者と支配関係に陥るか、そうなるまいとして怒りを使って離れるほかない。
 それは「なんでできない、しようとしない、できるくせに」と怪我をしている現実の状態を無視して要求され、結果自分はダメなんだと思わされるのと変わらない暴力なんだ。
 どちらも目の前の当人を軽く見積り、支援者が自分の方が理解していると驕り相手を決めつけてかかっている(侮辱している)。
 その不快感に抵抗して「私は可哀想じゃない」と人は反発するのだと理解した。

 彼女は支援者との戦いに力を注いできた。
 彼らにわからせることが目的になりつつあったと思う。
 確かに彼女は支援者からも大いに傷つけられた。
 しかし彼女がしたかったのは本当にそれなのか? という気持ちにはなった。
 もっと根本的な私に起きたのは実際どういうことであったのかへの理解。
 感じてきた不均衡や通じなさや自分に対する不信やらが何に由来するのか。
 それを研究し、恐怖体験に打ち勝って、乗り越えたかったのではないのか。
 そのために目を向けるべきことから逸らされてしまっていないか。
 性被害を与えた相手やその背景を相手取るより、無理解な支援者ににつけられた傷について取り組む方が彼女にとってやりやすくわかりやすかったということなのだろうか。
 逸らされることで得をするのは誰なのか。
 とかとか思い巡らせたりした。


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