1/8 『永遠年軽』読了
『永遠年軽』
金原ひとみさんの書評を新聞で読んで手にした本。
台湾にルーツを持つ人をめぐる三つの物語。
自分が最近認めたことと重なって、いろんなことを思い巡らせながら読んだ。とはいえ、なんと書き残せばいいのか、なかなか言葉にならない話でもあった。
最初の物語は語り手の夫が家から出て行ったシーンから始まる。
そこから自分と同じ「林」という苗字を持つ二人の友人の思い出へと意識が飛ぶのだが、読み進めるうち私は「近くにいても届かない孤独な一部分」について思い浮かべるようになった。
「林」のうち一人は「リン」と読む台湾にルーツを持つ女の子だった。彼女の台湾への想いは、時に彼女を周囲から浮き上がらせて、共感の届かない場所へと押し上げてしまう。
誰かのなんの悪気もなく発した一言に「疑うことなく刷り込まれた価値観」みたいなものが覗く時、そしてそれが社会で共有されていることを実感する時、私はただ浮き上がる。何かがおかしいとモヤモヤした気持ちを正確に言い表せないで抱え込む。
抱え込んで、それから私自身はどうしたか。そのモヤモヤに耐えかねて考えることも感じることもやめて、そのおかしいものを飲み込んで理解しようとしてしまったのではないか。
誰かにそのモヤモヤを理解され掬い取られるまで、それが何か掴み取ることもままならないまま、ただ抱え込んで。思い込んで、自分のものにしてしまう。
おかしいものだと感覚できないまま鵜呑みにしたのものはもちろん、できていたはずのものまでどうして飲み込んだんだろう? それはきっと明確に理解し切れなかったからだと思う。
それから負けたんだとも思う。共感の届かない場所にあるだろう気持ちをを抱えていることに耐え切れずに目を逸らした。声に、言葉にできずに捨ててしまった。
そうしてその社会での「普通」の波に身を任せてしまったのだ。私はそれを自分に認める。
こうして「普通」の波の中にいる時、人は全く悪意なくなんの痛みを感じることもなく差別して気づかない。「普通」の外側にいる人のことを想像もしない発言をしていることを知らない。差別は全く悪意なく意識されることもなく私の中に既に存在している。声を聞くことで初めて気付かされる。
声はただ異和を形にしようとしているだけで、攻撃ではない。「普通」に押し潰されないで掴んだ大切なものなのに、異和に耐え切れない人々はそれを排除しようとしてしまう。「攻撃された」と捉え押しつぶしてしまう。それが差別だ。
排除されることを知っているから、ますます人は自分の中の異和を掴んで言葉にしようと努力するより、「普通」に負けて自分の気持ちから目を逸らすことを選んでしまうのかも知れない。
差別をいじめの様な悪意による攻撃だと理解してしまうと見誤ってしまう。差別は自分ではなく「普通」を生きる中で、声や声にならない声を押しつぶしていることだ。
「普通」の波の中で語り手は、語り手もパートナーも望んでいない、誰のためかもわからない努力に掻き立てられていく。語り手の気づきもしない場所に独りよがりな思い込みが巣食っていて、語り手を最良のパートナーから引き剥がそうとする。
自分の思いに圧倒されて相手の声を潰さずに聞くことができれば、巣食っていた思い込みに気づくことができる。
何を言っているのか相変わらずわからんちんな記録だと思うけど、今日はこんなところで。