中学浪人を経験した教育研究者の個人的回想(2) ー全日制高校受験予備校の指導とはー

 前回のエントリはhttps://note.com/nikata920/n/n7b898ebe83b6


 とにかく、「中学浪人」として1年間、予備校に通うことになった。平成元年高校入試の当時、熊本の高校の受験教科は公立でも私立でも5教科中心。通うことになった松楠塾、教科担当の先生は5人。
 A(社会)我が1組担任。なぜか東大物理学科卒。
 M(数学)隣の2組担任、慶応卒、ニックネームは○デラン。スを付ければ分かりやすい。
 M(理科)○デランとは違い、こちらは白髪。早稲田卒、元高校の理科の先生。
 U(英語)またまた東大法卒、長年高校の先生で、退職後松楠塾へ。ニックネームは「神様」。ホントは髪さまで、白髪を染めたところが栗色にキラキラ光っていた。
 えーっと、あと国語。師範学校卒、どこかの中学の元校長先生。先生の中では圧倒的な年かさ。
 この先生たちが担当なのだが、実に怪しい。というより、経歴がちょっとありえない。退職教員はともかくとして、そうでない先生はそれなりに気の回る連中は「きっとスネに傷でも...」くらいは思っていた。事実、○デランは「気合いの入ったところ」を白状していて、出身は熊本で、後に私が通う高校に入っていたのだが、どうやら喧嘩で放校処分になったらしく、慌てて慶応高校に編入したという逸話を持つ。口調の荒さも腕っぷしも、年の割には抜群。同じくその腕っぷしを誇る生徒どもが一目おく先生であった。
 常勤は上のAからMまで。あとは授業時間だけの非常勤。おじいちゃんだからね。で、この3人は凄かった。とにかく人をつかむ。授業をきっちりコントロールしていく能力は、3人とも極めて高かった。
 社会のA木は今思えばバランスのとれた授業、基本はきっちり、無駄な話は少なく、しかし説明と説明に伴うエピソードは的確。ハイレベルな知識が必要なニカタら数人のために、中学以上の知識も教えてくれる。大体中学生の歴史で「三経義疏」なんてところまですらすらと出てくるところが、15歳のわれわれには、「東大ってやっぱすごいんだ」くらいのインパクトを与えた。
 何といっても極めつけは数学のM。とにかく授業が上手い、演習がしっかりしている。そしてなんといっても、「笑わせる」。普段できない生徒が頑張って正解を出していたりすると、ギョロリとした眼をパチクリさせ、さらに一度目をこすり「夢じゃあなかろか」と驚いてみせる。周りの生徒には大うけ、本人は本人で、その達成感はひとしお。一秒たりとも無駄ではなかった。みんなが解いている間、小さくなったチョークを床に起き、指示のための竹の棒をクラブに見立てて、床の板の穴にパターする(木造校舎なので、床の板の節は穴である)。これはできる子向けのアトラクション。「消しゴム忘れた」といわれれば、教室のあり得ないところから消しゴムや鉛筆が出てくる(これもみんながいない時に隠してたんだろうね)。授業のテンションを切らさないその努力は、いかなる数学嫌いも寝かさない力量があった。
 反対に、遊んでいれば徹底した制裁。もちろん本塾は「体罰容認」。授業中話し込んで夢中になっている生徒を、後ろからジャッカルのように迫り、首が360度回るくらい殴られる。他の生徒にすれば、もの凄く恐ろしいし、またその徹底した「技」が面白くて仕方がない。何をやっても文句はでないのだ。
 Mも鋭いところがあって、高校入試で引っかかりやすいポイントをこれでもかというほど押さえた指導は威力十分。2人に比べて優しいかと思われたが、叱る時には一太刀決める強さも十分。ある意味典型的な「名教師」の風格をもっていた。
 正直に言えば、非常勤の2人は「平凡」な先生だったのだが、U村は実直、国語の先生は温厚。それはそれで補習には十分な力をもっていた。


 塾の授業はほぼ演習中心。1日7時間なので確実に同じ教科が2回ある日がある。週のうち2コマだけ体育にあてられる時間があった(雨の日は公民だったか、これだけは先生も若いオニーチャンだった)。教科書は「マイコーチ」とか「ハイトップ」といった当時ポピュラーな問題集。これを1年から順に解いていく。解説から解く、解いて解説。社会だけが解説も充実していたが、あとはひたすら問題から学ぶというもの。要は3年間のおさらいが中心であり、上級学年の問題ができるためには、基礎ができていなくてはならないので、この方法は各自に効果をもたらした。
 私にしてみれば、英語・数学くらいは1年の問題くらいは余裕なのである。(社会・理科・国語については、単元の違いの方が大きいので、1年でも難しいものは難しい)。実際には、多くの生徒だってそう変わりはなかった。にもかかわらず、パーフェクトをとることは難しい。計算ミスもあれば、ピリオドを落とすこともある。基礎基本の徹底は、「できること」にあるのではなく、「コンスタントにミスしない」ことにある。1年生の勉強といえどもおろそかではなかったのは、この「確実さ」を身につけさせるためにあったようである。
 逆に、国語などは、文章の難易度が上がることはあれ、設問は1年から3年まで大きくは変化しない。こちらは、波状攻撃のようにやってくる問題をひたすらこなし、文章になれることによって力をつける方法だった。元国語の先生として説明しておくと、この方法は比較的有効である。国語の力が、その大半を「解く力」ではなく「読める力」に依存していることを考えると、読解と演習の繰り返しが効果的なのだから。

 かくして、私の勉強は、「解けること」ではなく「一問たりとも間違わない」方向に向き出した。間違えたら、徹底してミスの原因を探る。ケアレスミスは悔しがる。解答時間が余ったら、答案をもう一度清書してみる。ここまでくると「正答作りの職人」である。

 テストは月1回。5教科である。当時の熊本県の入試に倣って、満点は50点。合計250点。4月の第1回目から私は社会の満点をはじめとして、240〜45点の高得点を叩き出した。調子悪くとも238くらい。上手くいけば3教科くらいは満点を叩き出し、どの答案も1・2問の誤答しか許さなかった。40分ほどの試験時間はほとんど必要なく、半分以上は検算や見直しのための清書にあてられる。それでも時間が余れば、名前を清書する念の入りよう。「緻密に詰める」という感覚は、この時期に養われた。今でも大雑把な性格だが、この経験は後に大きく役立つことになる(特にアバウトさのリハビリとして)。それでも、全教科満点の250点だけはどうにもならなかった。99点と100点の間には、1点分以上の壁がある。本当の意味での「完璧」というのは、こういうことなのだということをおぼろげに感じていた。
 点数が張り出されるようになると、周りの見る目も変わってきた。友人Yにとっては「ひとつの目標」だったようで、お互いに切磋した。ニカタにとっては、これを維持することが自分の存在価値を見いだす唯一の手がかり。隣の暮らすのO島君とは、いつも10点程度の差。これを守りきるために、家庭でもきっちり勉強するようになった。15回ほどあったテストの中で、彼に1位を譲ったのは、11月くらいの一度だけ。ここでも、パーフェクトの壁とはすごいものだと思った。それぞれ、自分のそれなりの範囲で、努力をするようクラスは動いていった。



(今日の一言)
・先生はすごい、でも今の時代にあの「力による管理」は許容できるものではなくなった。あくまで「その時代だったから」
・高いところをねらうというのは、記録に挑むことではなく、徹底した「ミスとアラの管理」につきる。


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荷方邦夫
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