誰かや出来事を、ゆるせない自分がゆるせないジレンマからの脱出
「ゆるす」について、メモ帳に走り書きした言葉があります。
子どもの頃から、
ゆるせないことがたくさんあったから、
ゆるせなくて苦しんだり、
ゆるしたくてもがいたり、
ゆるせない自分をゆるせなかったり、
ずっと許すって・・・について考えてたからかな、
ふっと頭を横切ったので書き留めました。
最後の「知って頂きたい」って偉そうやけど(笑)
ハイヤーからの言葉やと感じました。
かつてのわたしは、
ゆるせない人が、たくさん登場する人生を送っていました。
わたしを虐待していた父親、
不妊治療に協力しない夫、
強烈な姑、
不倫していた夫etc.
自分がそんな現実を望んで創っているなんて
夢にも思ってなかったから
めちゃくちゃ被害者人生を歩んでいました。
被害者人生ってことは
加害者を製造していたってことで
今にして思えば白目を剥いてしまう💦
こんなにゆるせないって思ってたのに
まともに怒ることができないところが
また自分を焦がすのでした。
自分はこの状況を受け入れなければならないって
自動的に思い込んでいましたから
「ふざけんな!!」力(りょく)が
著しく欠落しており
どんどんナメられるし
相手をイラつかせるし
自分も不満だらけになるし
ぶさいく道まっしぐらでした(笑)
走り書きしたメモは、こんなのです↓↓↓
(メモ始まり)
相手を許すのと自分の捉え方を変えることはイコールではない。
=自分が屈服するわけではない。
相手を許すのと、相手が正しいと認めることはイコールではない。
=自分が間違っているわけではない。
世の中には、
幸せになるにはゆるしが必要、
豊かになるにはゆるさなければ、
などなど、よりよい人生のためには
ゆるさないといけないような雰囲氣が
漂っている、ように私は感じる。
視点を上げなければ幸せになれないという
言葉がナイフのように突きつけられている
感触があった。
だけれども、わたしはそれができないという
苦しいループにはまっていました。
でも、
自分の視点を上げるために相手を許すのではなく、
視点が上がれば相手のやらかしたことが視界に入らなくなる。
視界に入らなければ、それはないのと同じ、
文字通り眼中にない状態になる。
こうなると心も身体も軽やかになるから
幸せに決まってる。
許せなくて苦しんでいる人は
許さなくても視点(次元)上昇は可能だと知って頂きたい。
(メモ終わり)
例えば、
夫が不倫しているのを知り
はらわたが煮えくり返り続けていた時、
わたしはブラウスの襟が真っ黒になるほど
ずっと夫と彼女をゆるせないでいました。
(首の後ろが邪氣を吸い寄せまくっていた模様。
氣功の先生に教えてもらってゾッとしました。
どうりで部分洗いしても落ちなかったわけだわ)
身体から力を抜くことができなくなるくらい
ずっとこわばらせて夫を見張ってました。
でも、ある日、ふと
「世が世なら、あの人(夫)も
当たり前のことをしてるだけになるんやろうな」って
違う角度からの認識が浮かんだんです。
父から怒りをぶちまけられているとき
ふと、「この人も、こんな風に育てられて
こうすることしか思いつかないんだろうな。
別の方法をされたこともないし知らないんだもんな」って浮かんだんです。
そしたら急に肩の力が抜けて
相手を正当化するでもなく
自分が間違っていると認めるでもなく
同じ出来事でも
極悪非道にも見えれば、
時代によっては当たり前でもあり、
わたしが振りかざしている正しさって
普遍的な正しいじゃないんだなぁ・・・と
思った時に、両肩がストンと下がりました。
それまでは、緊張が抜けなくて無意識に
肩をいからせていたことにようやく氣がつけたのでした。
思いっきり緊張させておいて
氣づいて
フッと脱力して
自分をほどくために
ゆるせない、という感情を
きつく握りしめてしまうんだろうな。