障害受容について伝えたいこと
障害受容とネット検索すると障害受容のプロセス云々が上位に出て来ますが、医療従事者は実際に学校でどういう風に学ぶのだろうといつも思っています。
今回はそんな障害受容について綴ってみようと思います。
障害受容を促すケース
例えば麻痺があることを認識せず歩き回って転倒を繰り返す。そういう場合には"あなたには障害がありますよ"と理解してもらう必要はあると思います。
でも、ほとんどの場合、障害があることを他人から指摘されなくても自分で嫌という程わかっているのではないでしょうか?
だから"障害があることを受容しないさい"と促す必要がある人はそう多くない気がします。
ただ、障害があると理解していてもショックのあまり「こんな身体になって何をしたところで」とリハビリを拒否してしまうような人には、リハビリが必要な障害なのだと受容してもらわなければならないでしょう。
ただ、私が回復期で感じたことでもありますが、リハビリをすることを受け入れない患者を否定的に捉える医療従事者が一定数いるように思います。
でも患者の立場である私としては、患者をリハビリへと導けない自分たちの側に何か足りないものはないのかと振り返ってもらいたい、そう思ってしまいます。
そして少なくとも患者の前でリハビリしない人のことを否定するかのような発言は謹んでほしいです。
障害受容を促す必要はある?
回復期や生活期で改善を信じて一生懸命リハビリをしている人はたくさんいると思います。
元の身体に戻れないことは理解した上で、それでも少しでも元の体に近づけたらとリハビリ生活を送っているのではないでしょうか。
そんな人たちが苦しむことの一つに「障害受容」という言葉がある気がしています。
障害受容しないから前に進めない。そんな心情を吐露するポストを何度も目にして来ました。そして私もその1人でした。
この場合の障害受容とは「障害者としての新たな人生を受け入れる」ということだと思うのです。
でもこれは医療従事者始めとする他人が受容を促すべきものなのでしょうか?
しかも回復期という最大でも180日間という限られた日数の中で、促されたからと別の身体になった自分を受け入れ、新たな人生に向かって‥と思える人がどれだけいるのでしょう。
退院し日常生活に戻ったら、更に元の身体ではない自分と対峙させられます。
保護された病院という場ではない社会で、健常者に交じって不自由な身体で新たな人生をスタートすることは容易ではありません。
人から促されても短期間でできるはずもないのに、新たな人生を早く受け入れなければならないという風潮が当事者に追い討ちをかけているように思います。
私の場合
私が障害受容を意識したのは退院後に自費リハビリを受けるべきか悩み、回復期で担当だった療法士さんに相談した時のことでした。
自費リハビリに対する意見は言えないとしながら、
「麻痺が良くなる可能性があると言われて麻痺が治ると思っているでしょう。障害を障害として受け入れないと」
と言われました。
この言葉を聞いて私は「障害受容出来ていないことを責められた」と感じました。そしてこのときから障害受容について悩み苦しみ始めました。
この時点での私は「退院後はジムに行け」という療法士さんの言葉通りジムに通い、クリニックのリハビリに通っていました。
そしてクリニックの療法士さんの勧めもあり、改善が見込めるなら自費のリハビリに通おうかどうしようかと迷っている状態でした。
「そこへ障害を障害として受け入れないと」と言われて混乱しました。
障害を障害として受け入れるとは「麻痺は改善しない」と受け入れなければならないということだろうか?
確かに回復期入院中にも「麻痺は良くならないんでしょうか?」と聞いた私に担当療法士さんは「死ぬような病気だったんですからね」と答えていました。
そのことも相まって麻痺については諦めるべきなのだろうか?リハビリは無駄なのだろうか?障害を受け入れられない自分がいけないのだろうかと落ち込みました。
今ならわかります。障害を受容することと改善を放棄することは別です。でも当時は冷静に物事を判断出来ず精神的に落ち込みました。
結局は自費リハビリに通うこととなり麻痺も改善した訳ですが、その後も私の葛藤は続きました。
足の麻痺とは別に生活をする中で、手にも障害があることや高次脳機能障害があることがわかり、どんどん元の生活が遠ざかっていきました。
チャレンジする度に失敗し障害を突きつけられる中で「障害者となった自分を受け入れないから苦しいのだ。早く受け入れて新しいスタートを切らないと」と焦れば焦るほど苦しさが増した様な気がします。
そんな時期を過ごしてようやく辿り着いたのが、先日のブログにも書いた「障害受容出来ないことを受容する」ということです。ここに辿り着いてから一気に気持ちが楽になりました。
先日、自費リハビリの担当理学療法士さんが
「苦しんだ期間があったからこそ辿り着いたのだと、苦しい時期をそばで見ていたから思います」
そんな感じの言葉をかけて下さいました。
苦しい期間を支え見守ってくれた人がいたからこそ、やっと私なりの障害受容が出来たように思います。
障害受容という言葉の弊害
障害受容の5段階といわれるように色んなステージがあるにも関わらず「障害受容」という言葉で一括りにされていることが良くない気がしています。
何かもっと良い名前はないのでしょうか?
それと同時に、支援者に障害者としての新たな人生を受け入れるということがどういうことかちょっと想像してもらいたいです。
高次脳機能障害ではと疑い脳外科を受診時に医師に相談したところ
「くも膜下出血は死ぬ人3割、重い後遺症3割という病気ですからね」
そう言われました。
私はこの医師に
「あなたは記憶障害や注意障害となりメスも握れず診察も出来なくなっても、死ぬ様な病気だったからという言葉で諦められますか?」
そう聞いてみたいです。
助けるまでが外科医の仕事かもしれませんが、私たち当事者は、死と直面し助かったところから障害者としての人生が始まり、それが死ぬまで続くのです。そのことを少しでも理解してもらえたらと思います。
私は訪問や通所などのリハビリを受けたことがないのでわかりませんが、そういう場ではどのくらい療法士さんと密に接する時間があるのでしょうか?
また、私のように公的なリハビリにつながれないという方もいると思いますが、生活期こそ療法士さんを始めとする医療従事者の心のサポートが必要な時期なのではないでしょうか?
けれども残念ながら脳疾患患者にはがん患者のような退院後のサポート体制はありません。障害を抱えつつ生きる人に専門家のサポートが受けられる医療体制が作られることを願っています。