ふたつよいことさてないものよ
河合隼雄著 ここのろ処方箋 より
精神状態と痛みの関係
ここしばらく良い状態が続いていました。
痛みが少ないと精神的に落ち着き活動が活発になるので良い循環となるのかなと思っていました。
原因不明の右半身痛と頭痛に悩まされていた時がありました。
ちょうど小康状態の時に受診したら
「精神的なものですね。精神状態が落ちついていると痛みも落ち着くんです」
と先生に言われました。
でも私としては痛みがひどいと精神的に参ってしまう感じでした。
受診した時は服薬で痛みがコントロールでき結果として精神的に落ち着いていたのに、まるで痛みが精神的なものであるかのように決めつけられた気がしてそれ以来受診するのが嫌になっていました。
突然くる感情の波
悩まされていた頭痛や右半身痛は
服薬のコントロールと肩関節への注射、そして二人の療法士さんのリハビリのおかげで最近は落ち着いています。
リアルやオンラインのイベントに参加もでき充実した時間を過ごしていました。
「ここ3週間連続していい調子ですね」とリハフィットでも言われました。
なのにその直後からどんと落ち込みがきてしまいました。
何でも後遺症と思ってはいけないのかもしれませんが、くも膜下出血の後から突然糸が切れたように自分の感情のコントロールが効かなくなることがあります。
急性期で食事を取ろうとした際にうまくいかなくて泣き出してしまったり、回復期や頭痛での入院中にも看護師さんのちょっとした態度や、療法士さんからの思いがけない辛い言葉に、これまでなら人前で抑えられないことなどなかったのに、感情が溢れ出して止まらなくなるようになりました。
日常生活でも回復期でのことを考え始めるとどうにも抑えられなくなってしまいます。
たた、精神的には落ち込んだものの痛みの悪化はなく、それは先生の指摘と異なっていて幸いだなと思っています。
受け身だったリハビリへの後悔
自分自身の身体のことなのに、どうしてもっとリハビリ病院について調べなかったのか検討しなかったのか。
違う病院に行っていたら、違う療法士さんが担当だったら何か違ったのではないだろうか。
同じ状況であったにしてもちゃんとリハビリについて調べ自分から療法士さんに要求すれば良かった。
聞き入れてもらえないなら転院するという手もあったのではないか、そんなことを考え後ろばかり向いてしまいます。
近くで通っている療法士さんには
「とりあえず今できる最善を尽くしましょう」と言われています。
本当にその通りだと頭ではわかっています。
今更考えても、いくら後悔してもどうにもならないと分かっていても
いったん考え始めると止まらなくなってしまいます。
ブログで何度となく触れていますが
現在は本当に良い療法士さんに恵まれたと思っています。
ただ、回復期にいる間も担当の方との関係は良好でした。
決して寄り添い細やかな対応をする方ではありませんでした。
でも、体力・筋力をつけることがベストなのだという彼の言葉を信じて
一生懸命ついていきました。
思い返すと色々な事がありました。
「どうして?」と思うこともたくさんあります。
でもそれは今現在、良い療法士さんと巡り合ったからなのかもしれません。
そのかたと比較してしてしまうから、良い方を知ったから気がついてしまったことがある、そんな気がしています。
ふたつよいことさてないものよ
今読んでいる 河合隼雄著「こころの処方箋」に
“ふたつよいことさてないものよ“と書かれている章があります。
“ひとつよいことがあると、ひとつ悪いことがあるとも考えられる。
世の中うまくできていてよいことずくめにならないように仕組まれている。
この法則はまた、ふたつわるいこともさてないものよと言っていると考えられる。
何か悪いこと嫌なことがあるとき、
よく目をこらして見ると、それに見合う「よいこと」が存在していることが多い。
この法則の素晴らしいのは「さてないものよ」と言って、「ふたつよいことは絶対にない」などとは言っていないところである。
ふたつよいことがさてないもの、とわかってくると何かよいことがあると、それとバランスする「わるい」ことの存在が前もって見えてくることが多い。
それが前もって見えてくると、少なくともそれを受ける覚悟ができる“
ざっとそんなことが書かれています。
人間って悪いことを大きく捉えがちな気がします。
今回私が突然見舞われた「くも膜下出血」これはまさしく「わるいこと」です。
その代わりに、家族の絆や見守ってくれる友人の存在を感じ、感謝することを知りました。
でもやはり悪いことである「くも膜下出血」の存在が大きすぎて良いことをなかなか正しく捉えらずにいると思いました。
良い理学療法士さんとの出会い
リハフィットや近所の理学療法士さんとの出会いは私にとってはは「よいこと」です。
自分でも本当に幸運だったと思っています。
その一方で素晴らしい療法士さんの存在を知ることによって、回復期のことを後悔し落ち込んでしまう自分がいます。
訴えを取り上げて貰えなかった悔しさもありますが、何よりリハビリについて知ろうともしなかった自分自身への後悔です。
もしかしたら回復期のせいに全てしてしまえたら楽なのかもしれません。でもそうできない自分がいます。それがなぜなのかは自分でよくわかっていません。
ただ、今回の本を読んで、
「ふたつよいことさてないものよ」を実感しています。
良い療法士さんとはどういうものかを知り、回復期の方が有能であったわけではないことを知りました。
そして、今現在は良いセラピストの施術を受けている。
それは間違いないのです。
煮詰まっていた私は以前にも書いた「うららか相談室」を利用しました。
そこで言われたことは
「有能なかたは、患者さんと向き合わない他の療法士と働くのが嫌になって独立してしまうことが多いんですよ」ということでした。
とすると私が回復期で担当された方はごく普通の方だったのだろう
と思いました。
むしろリハフィットさんのように常に患者と同じ世界を見ようとしてくれるセラピストさんの方が特別なのだろうと思いました。
“ふたつよいことさてないものよ”
解釈が違うのかもしれませんが
良い療法士さんと出会ったことによって、信じていた療法士さんがベストではなかったと知ったわけです。
でも今、良い療法士さんに施術してもらっていることは間違いなくよいことであるわけです。
“ふたつよいことさてないものよ”
今、よいことをひとつちゃんと与えられています。
けれどもそんなことでは割り切れない別の思いを抱えていることも事実で、何かの拍子にそれが溢れ出してしまいます。
現在、私は悪いことを大きく捉えているのかもしれません。
良いことは小さく、ともすると気が付かなかったりしているのでしょう。
1歩下がって、良いことと悪いことを客観的に見られたら、回復期のことが消化出来るのかもしれない。
そう思いつつ、それまでにはまだまだ時間がかかりそうな気がしています。